第69話:超湿気の大湿原と、外付けテラス攻略法
要塞の重装魔導扉が重々しく開き、そこから一歩外へと踏み出す。
瞬間、私の全身の毛穴が拒絶反応を起こした。
そこは、足元が底なしの泥沼と化した『常闇の霧降湿原』――常軌を逸した超湿気地帯だった。
視界はねっとりとした濃霧で完全に遮られ、肺に流れ込んでくるのは、酸素ではなく「水分そのもの」のような気配だ。呼吸をするだけで、喉や肺の粘膜が水浸しになっていくような錯覚に陥る。
「うぐっ……! 泥が、革靴の底にねっとりと付着する感覚が……! 湿気どころの騒ぎではありません。息をするのも、この空気に触れることすらも、私のインドア精神に対する真っ向からの暴力です……!」
あまりの過酷な環境に、私のテンションは秒速で地に落ちていった。
だが、我が要塞の従者たちは優秀だ。私の絶望的な表情を察知するや否や、音響担当のルードさんが素早く一歩前に出た。
「アレク様! お下がりにください! 特殊魔導合金で作られた『超軽量の持ち運び式・魔導床板』と、四方を囲む『透明な魔導硬質板の壁と天井』を瞬く間に組み上げていきます!」
カシャリ、ガチャン、と手際の良い金属と結晶の嵌まる音が響き、ルードさんは私の足元に床を、そして頭上と周囲を覆う魔導硬質板をあっと言う間に組み立てていく。
「壁と天井の空間を確保しました! これで、あの不快で下劣な泥沼から完全に遮断された『小部屋』の完成です!」
「素晴らしい、ルードさん。……完璧な仕事です。よし、この空間を、我が要塞の延長線上にある『一時的な外付けテラス(小部屋)の試作品』と認定します」
我がスキルの大前提――それは「壁と天井に囲まれた空間」であることだ。
私は空間の成立を確認しつつ、右手をスッと前方に突き出した。
我がインドア生活の平穏を脅かすこの圧倒的な湿気を、我がスキルの力でねじ伏せる時だ。
【スキル:部屋で快適に過ごす(二重エアカーテンモード)】
『シュピィィィン……ッ!!』
起動音とともに、組み立てられた魔導硬質板の内側に高密度な空気のドームが重なり、外部の超湿気が完全にシャットアウトされる。ドーム内部の空間は瞬時に「湿度45%・室温21.5度」の快適な絶対領域へと書き換わった。
だが――。
この小さな空間から一歩外へと影響を及ぼし、無理やり範囲を広げ続ける代償は小さくなかった。
「っ……! ぐ、頭が……!」
スキルの発動と同時に、ズキン、ズキンと、頭の芯を鋭く締め付けるような重い頭痛が脳髄を突き抜けた。過負荷による強烈な反動だ。
「アレク様、頭痛が……! すぐに甘いものを!」
アリスさんが慣れた手つきで私に駆け寄り、専用の魔法保温マグカップを差し出す。
私は震える手でそれを受け取り、蓋を開けて一気に口へと含んだ。
中身は、たっぷりのグラニュー糖と濃厚なミルクをこれでもかと溶かし込んだ、極甘のホットミルクティーだ。
脳の隅々まで熱い糖分が駆け巡り、血管を伝って全身に行き渡っていく。
先ほどまで脳を殴りつけていたような激しい頭痛が、すーっと心地よい気怠さへと溶けて消えていった。
「ふぅ……。甘い紅茶が、乾ききった体に染みわたります。……助かりました、アリスさん。私の生存権を守るための完璧なタイミングでした」
「お加減はいかがですか、アレク様。無理なさらず、どうかご自愛くださいませ」
「ええ、もう万全です。糖分さえ補給すれば、私のインドア精神は無敵ですので。……では、このテラスの空間ごと、前方の濃霧と泥沼をまとめて浄化しましょう」
私は再び前方を睨み据え、次の段階へと移行する。
外気との境界にあるエアカーテンの壁面を、さらに物理的かつ魔力的に押し広げていくのだ。
【自動清掃(極限除湿&カビ・粘着泥完全除去):実行】
『シュウゥゥゥゥ……ッ!!』
すさまじい高周波の駆動音とともに、二重エアカーテンのドームが周囲の空間を押し広げるように急拡大した。
その過程で、進行上のありとあらゆる不快因子――あのぬめり気のある粘着泥も、肺を焼き焦がすような濃度の湿気も、すべてが「テラス席に侵入した不快なゴミクズ」として判定される。
結果は一瞬だった。
ドームの通過した軌跡だけが、まるで高級リゾートのプライベートビーチのように、サラサラとした純白の乾燥砂へと瞬時に浄化・乾燥されていく。
「泥沼が……一瞬で、どこまでも歩きやすい極上の砂浜のようになってしまいました……!?」
アリスさんがいつも愛用のメモ帳を抱えたまま、信じられないものを見る目で目を丸くしていた。




