閑話:『音滅』のルードが求めた静寂
漆黒の重鎧を脱ぎ捨て、手際よく敷き詰められた高級絨毯の上でちょこんと正座したルードの脳内は、未だかつてない猛烈な衝撃と戦慄に包まれていた。
かつて彼の両手は、数千の人間を鼓膜破裂の悶絶死に至らしめ、要塞の巨大な城壁を一言の呪文で粉々に砕く「死の音波」を奏でるための兵器であった。気に入らない部下がいれば見せしめに声帯を引きちぎり、反逆の気配を見せる都市があれば夜を徹して絶叫と惨劇の生き地獄に変える――それが、魔王ガルシス配下の四天王の一角、『音滅のルード』として血と暴力にまみれた日常を過ごしてきた男の誇りであり、存在理由のすべてだったのだ。
殺戮と騒音の惨状の中にしか、己の魂の居場所を見出せなかった男。
だが今、彼の全身を貫いているのは、これまでの数百年の生を根底から否定されるような不条理だった。
(なんなのだ……この空間は……!?)
脳裏によみがえるのは、ほんの数十秒前の出来事だ。
主であるガルシス様が「あの少年の領域には絶対に触れるな」と苦渋の表情で語っていた忠告を、ルードは鼻で笑っていた。
『たかが人間のガキ一匹に怯むとは、ガルシス様も焼きが回ったか』と。
自慢の超極大音波魔法で王都もろともあのガキを粉砕し、強硬派たる四天王の威信を見せつけてやろうと、意気揚々と最深部の影から飛び出した。そして、勝利を確信した凶悪な高笑いとともに、喉元まで破壊の言霊を組み上げ――まさに解き放とうとした、その瞬間。
ルードは自ら、少年が展開していた「快適領域」の内部へと足を踏み入れたのだった。
『フワァァァ……』
次の瞬間、ルードの喉から発せられるはずだった極大魔法の詠唱も、耳を裂くような高笑いも、すべてが無音の空間へと吸い込まれて消えた。
魔法を繰り出すことすら許されない。威嚇の言葉すら吐かせてもらえない。
何より異常だったのは、ルードの内に渦巻いていた凶暴な殺意や破壊衝動そのものが、アレクのスキルの自動清掃プロセスによって「室内環境を著しく害する不快な騒音ノイズ(ゴミ)」として認定され、綺麗サッパリ浄化・消去されてしまったことだ。
戦いですらない。破られる術すら存在しない。
長年抱え続けてきた悪意と刺々しい殺意が「お掃除」によって削ぎ落とされ、ルードの精神は思いがけず透明で無垢な状態へとリセットされてしまっていた。
茫然自失となった彼を包み込んでいたのは、魔法的な技術で完璧に管理された湿度と温度、そして耳に心地よい極上の静寂。
足元にはS級暗殺者ガルムが気配すら殺した手際で敷き詰めたふかふかの絨毯があり、アリスが保温魔法で温めていた香ばしい焼き菓子の甘い香りが優しく鼻腔をくくぐり抜ける。
「……あの、邪魔です。静かに原石を採取したいので、そこの絨毯の上で正座してお菓子でも食べていてください」
作業の手を止めずに放たれたアレクの冷ややかな一言に、毒気を完全に浄化されたルードは、吸い寄せられるように漆黒の重鎧を脱ぎ捨てて正座していた。
そこへすかさずアリスから差し出された焼き菓子を、ルードは震える手で受け取り、ゆっくりと口へと運んだ。
さっくりとした香ばしい歯触りのあとに押し寄せる、濃厚なバターのコクとアーモンドの甘み。
殺意を失い、無垢となった心と体に、焼きたてのような温かさを保ったその一口がじわじわと全身へ染み渡っていく。
(う……美味い……!!)
その瞬間、ルードの目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
殺意というノイズが消え去ったからこそ、この完璧な静寂と、あたたかなお菓子の尊さがダイレクトに魂に響いたのだ。
(そうだ……俺は今まで、騒音と殺戮の毎日で心が荒みきっていたのだ……! アレク様がこの完璧な静寂の中で至高の時間を過ごすための、究極の音響空間の構築……これこそが、俺の魂が真に求め続けていた『使命』だったのだ……!)
世界を破壊しようとしていた悪魔の如き最高幹部は、そこにはもういなかった。
毒気が跡形もなく抜け切り、聖なる歓喜と職人としての情熱に満たされたルードは、ボロボロと涙を流しながらアレクへ向かって深く頭を下げたのだった。
「マイホームの音響エンジニアとして……どうか俺を雇ってください……!」




