閑話:天界龍は、至高のお手入れに抗えない
数百年、いや数千年もの間、我らは『天界龍』としてこの凍てつく荒風の回廊に君臨していた。
牙を剥く愚か者を吹き飛ばし、舞い散る不純物の中で威厳を保つことこそが、我が誇り高き生業であったはずだ。歴戦の冒険者たちが我が姿を見ただけで恐怖に震え逃げ出す様を見るのが、唯一の誇りでもあった。
――だが、その平穏にして厳かな日常は、ある日突如として打ち破られた。
「なんだ、この空間は……?」
回廊の奥から現れた人間たちは、殺気どころか戦闘の気配すら微塵も纏っていなかった。
いや、それどころか、侵入者であるはずの彼らが足を踏み入れた瞬間、我が領域の空気が根底から一変したのだ。
荒々しく吹き荒れていた猛烈な寒風はピタリと止み、代わりに全身を優しく包み込む、ぽかぽかと温かな空気。そして鼻腔をくすぐる、これまで生きてきて一度も嗅いだことのない甘く上品な花の香り。
そこにあったのは、生死をかけた不快なダンジョン最深部などではなく、まるで人里の最も快適な部屋のような、極上の平穏そのものだった。
『……なっ、なんだここは……!? 居心地が……良すぎる……ッ!』
長年、荒風と乾燥に晒されて凝り固まっていた我が巨躯の隅々まで、その快適な空間の波動が染み渡っていく。
戦闘意思など、ものの見事に蒸発してしまった。あんなもの、この底知れぬ心地よさの前には何の価値もない。
さらに、その人間の男が空間から繊細な毛のついた不思議な道具を取り出した瞬間、私の理性は完全に崩壊した。
一目で『毛並みを整える至高の道具』だと分かってしまう代物を向けられ、「さあ、綺麗にしてあげますね」などと穏やかな声で言われてしまっては……もう、誇り高い聖獣としてのプライドなど保てるはずがなかった。
(この巨体のままだと、あの最高のお手入れが届きにくい……っ!)
私は持てるすべての聖獣スキルをフル稼働させ、自らの意志でその巨大な体をギュッと縮めた。
小型犬ほどのサイズ。うん、これぞ至高の撫で心地と隅々までのケアを両立させる「お手入れ最適化サイズ」だ。
ポイントを完璧に押さえたブラッシングと、空間スキルの合わせ技によって、長年の汚れと乾燥による痒みが一瞬にして完璧に消去された瞬間、私は完全に悟った。
あぁ、もうこの場所から離れたくない。このお方――アレク様の作り出す完璧な空間の波動と、あの神業のような至高のお手入れの虜になってしまったのだと。
『きゅ~ん……(私をあなたの要塞の庭園守護獣兼ふかふかクッションとして連れて行ってください)』
私がすっかり懐ききって、トコトコと足元に歩み寄り、アレク様の服の裾を口で優しく引っ張ると、後ろで見守っていたアリス殿やガルム殿が「ま、まさかあの天界龍が……!?」と驚愕の声を上げる。
そんな周囲の喧騒などどこ吹く風と、アレク様は少し困ったように、しかしどこまでも優しく私の頭を撫でてくださった。
「うーむ、ついて来てくれるのも嬉しいのですが……毎回『天界龍グラン・ドラゴン』とお呼びするのも少々仰々しいですね。……そうだ、これからは『ルル』とお呼びしてもいいですか? 小さくなって、そうやってすり寄ってくるあなたにぴったりで愛らしいお名前だと思うのですが」
『きゅ、きゅ~んっ……!!(ルル! 最高の名前です! どこまでもお供いたします!)』
最高の名前を授かった私は、誇らしげに胸を張り、アレク様の足元にしっかりと寄り添ったのだった。
こうして、伝説の聖獣である私は、あっさりと「庭用の動く高級ふかふかクッション」兼アレク様の愛玩龍『ルル』として、新たな龍生を歩み始めたのである。




