第58話:天空の回廊と、不快な環境のジレンマ
雲海を突き抜けた先、天を突く石造りの壮大な回廊の奥へと進むと、そこに目指す存在は横たわっていた。
全長五十メートルを超える白銀の鱗に覆われた龍――『天界龍』である。
その巨躯はまるで高貴な神殿のように神々しく、静かな息吐きとともに大気を微振動させていた。だが、私の視線を何よりも強く惹きつけたのは、その胸元である。そこには、雲よりも白く、綿飴のようにふわふわとした純白の綿毛がびっしりと生え揃っていたのだ。
「おお……素晴らしい。あれこそが究極のソファを作るための、極上の素材……!」
私がその圧倒的な質感と密度の高さに感動し、打ち震えた、次の瞬間だった。
『ゴーッ!』
天空の回廊全体を揺らすような、激しい下降気流が突如として吹き荒れた。
周囲の穏やかだった空気は一瞬で吹き散らされ、標高の高さゆえの厳しい冷気が一気に押し寄せてくる。
「……壁も天井も存在しない、ただの剥き出しの広場。やはりこのような場所は『部屋』として認識しにくいですね……」
私は舞い上がる髪を抑えもせず、静かに周囲を見渡して呟いた。
四方を囲む構造物がない野外の広場では、空間が解放されすぎている。そのため、私が普段無意識に展開している「領域(部屋)」の快適な概念がうまく固定できないのだ。
おまけに、次々と襲い来る強風とともに舞い上がる凍てつく冷気が、容赦なく私の頬を掠めていく。
(……肌を刺すような乾燥した突風、そして逃げ場のない剥き出しの冷気。これでは手元が狂ってしまいますし、繊細な綿毛の質も落ちてしまいそうです)
容赦なく吹き付ける冷気に対し、私はただ静かに思考を巡らせ、環境の不快さを冷静に分析していた。すると、私の隣で真剣に言葉を聞いていたアリスが、私の意図を深く汲み取り、深く首を縦に振った。
「……壁も天井も存在しない広場……ですか!? なるほど、お部屋の境界線がないからこそ、風も冷気も遠慮なく侵入してきてしまうのですね……!」
アリスは私の独特な空間認識に一切の疑いを挟むことなく、至極真面目な顔で深く納得している。
その時だった。天空の回廊の上空から、凄まじい密度の風圧を全身に纏った一人の男が、大気を引き裂くような音とともに舞い降りてきた。
魔王ガルシス配下の幹部にして、天界龍を我が物にしようと目論んでいた『風裂のガゼル』である。
「フハハハ! まさかこの『風裂のガゼル』より先に天界龍に辿り着く者がいようとはな! だが天界龍の素材は我がもの。邪魔な羽虫どもめ、我が風の刃で切り刻んでくれる――!」
ガゼルは己の欲望と獲物を横取りされまいとする敵意を剥き出しにし、高らかに気炎を吐いた。両手から解き放たれる風の魔力によって、回廊にはさらなる凄まじい極寒の暴風が巻き起こり、大気を削り取るような鋭い風圧が私たちを襲う。
だが、目の前で猛威を振るう魔族の幹部と極寒の暴風を前にしても、私の関心はただ「作業環境の改善」にしか向けられていなかった。
「……参りましたね。これでは風が冷たすぎますし、綿毛を丁寧に採取する作業に大きな支障が出てしまいます。まずは、この不快な風をどうにかしなければ……」
ガゼルの放つ威圧も殺意も完全にスルーしたまま、私は静かに溜め息を漏らす。
そして動じることなく、ただひたすらに――目の前の障害を取り除き、理想の作業空間を作り上げるための思考を巡らせはじめるのだった。




