第57話:天界龍の綿毛と、理想のインテリア設計図
「あそこが天界龍の生息する最深部、『天空の回廊』でございますね」
アリスが指さす先には、雲を眼下に見下ろす広大な古代遺構が広がっていた。数多の冒険者が挑み、そして生きて還ることは叶わなかったとされる死地の最果て。神域の如き厳かな雰囲気が漂う場所だ。
だが、私の意識は別のところにあった。
ビュービューと容赦なく吹き荒れる激しい寒風が、古代の石畳を舐めるように駆け抜けていく。しかし、私たちの周囲数メートルだけは、まるで目に見えないガラスの温室に守られているかのように風すら一切届かず、穏やかな温もりとポカポカとした上質な空気に包まれていた。
「風の音が少し賑やかですね。……おや、湿度がわずかに低下してきました」
私が淡々と呟くと、その小さな変化を誰よりも早く察知した人物が動いた。
背後に控えていた元・S級暗殺者のガルムだ。彼は瞬時に私の預けた備品ポーチから、温度と香りの完璧に調整された温かいハーブティーの入ったカップを取り出し、手際よく差し出してきた。
「アレク様、どうぞ! ……いやしかし、外の寒風が嘘みてえにポカポカで、いつでも極上の温かいお茶が飲めるなんて、ここは本当にあの魔獣うごめくダンジョンの最深部なのか……?」
「……相変わらず手際が良いですね、ガルムさん」
「へへっ、アレク様の快適な空間を保つことこそ、今の俺の全存在理由ですから!」
かつては影に潜み、冷徹な刃で数々の修羅場を潜り抜けてきた男。その引き締まった暗殺者用の装束はそのままに、今は完璧な執事の如き立ち居振る舞いで私の補佐に徹している。
その堂に入った仕事ぶりを見て、アリスがクスクスと楽しそうに微笑んだ。
「ふふ、ガルム殿。アレク様がおつくりになる快適なお部屋の前には、どんな凄腕の刺客も形無しでございますね」
「ええ、あの空間のハーブティーとラグマットの前じゃ、どんな殺気も消し飛びますよ……。初めてあの空間に触れたときの衝撃といったら、俺の暗殺者としてのプライドなんて一瞬で溶けて消えましたからね」
すっかりあの究極の快適性と温かい部屋の魔力に魂を奪われた二人が、妙なところで意気投合し、深い絆を育んでいる。
私はそんな二人を生温かい目で見送りつつ、愛用のリュックから一枚の古い羊皮紙を慎重に取り出した。
そこに描かれているのは、私が寝食を忘れて夜な夜な書き溜めた、人類未踏の最高傑作――『移動式・絶対不可侵の究極幻影鑑賞室付き要塞』の全体設計図である。
この要塞の中核をなすリビングルームには、極上の肌触りを誇るソファが不可欠だ。そして、そのクッション材として最高峰の性能を発揮するのが、他でもない「天界龍の綿毛」なのである。
「さて、二人とも。今回の最大の目的である『天界龍の綿毛』ですが、くれぐれも勘違いしないように。ただ討伐して剥ぎ取ればいいというものではありません」
「……といいますと? 魔獣の素材といえば、討伐してキレイに採取するのが基本ですが……」
アリスが小首をかしげ、不思議そうに紫色の瞳を瞬かせた。
「いいですか。天界龍の綿毛は非常に繊細な産毛の集合体です。もし私たちが戦闘の興奮に任せて恐怖や怒りを与え、怯えさせたまま討伐しようものなら、龍の防衛本能によって綿毛の繊維が瞬間硬化してしまいます。そうなれば、『高密度低反発』の最大の特徴である、あの包み込むようなしなやかさや吸い付くようなフィット感が完全に失われてしまうのです」
「……つまり、龍を怒らせてはならないと」
私の熱の入った説明に、アリスは「なるほど……」と感心したように、あるいはどこか呆れたように小さく首をかしげた。
「ええ。したがって、今回の作戦は討伐ではありません。――天界龍を極限までリラックスさせ、心地よい眠りに誘った状態で、私の手で優しく『ブラッシング』を行い、抜け落ちる極上の綿毛をいかにノーダメージで採取するか。それが全てです」
「……龍を、ブラッシング、でございますか」
アリスの声がわずかに震える。
だが、我が理想のマイホーム、そして究極のリラックス空間を創り上げるため、私に妥協という文字は一ミリたりとも存在しないのだ。私は決意を新たに、天空の回廊の奥へと足を踏み出した。




