閑話:漆黒の暗殺者と、拭えぬ冷気
魔王軍暗殺部門に所属するS級暗殺者、ガルム。
彼の半生は、常に「冷気」と「泥」とともにあった。
幼少期に暗黒街に捨てられ、生き延びるために刃を握った。殺しの技術を極めてS級暗殺者という高みに上り詰めてなお、彼の生活環境は過酷そのものだった。
拠点は湿度が九〇%を超え、天井から不快な滴がポタポタと落ちるダンジョン最下層の泥部屋。硬度チタン級の硬い黒パンをナイフで削り、濁った泥水で流し込む日々。幾度となく刃を交え、返り血を浴び、命を削る任務の連続。
肉体にも精神にも、拭い去ることのできない「不快な冷気」と「血の臭い」がこびりついていた。
(……この不快感に耐え抜いてこそプロだ。いつか圧倒的な功績を立て、暗殺部門の幹部へ成り上がってみせる)
ガルムは暗殺者としての高いプライドと上昇志向を持っていた。プロだからこそ、環境の劣悪さに文句を言わず、ひたすらに耐え忍んできたのだ。
そんな折、魔王軍に激震が走る。
十万の軍勢を率いて平原を進撃していたあの大攻勢において、暗殺部門の頂点であった四天王ガルバが、一切の痕跡すら残さずに一瞬で消滅させられたのだ。
師であり絶対的な頭目であったガルバを失い、暗殺部門は混乱に陥る。さらに異常だったのはその後の上層部の対応だった。魔王軍幹部たちは平原での惨劇に顔面を蒼白にさせ、「あの件に関する一切」を軍内で徹底的に隠蔽・封殺。「奴に関わることすら固く禁ずる」と厳重な通達を出したのだ。
人間側のギルドマスターによる完璧な情報統制と相まって、アレクに関する情報は双方の陣営で完全な「闇」へと葬られた。
だが、凄腕の暗殺者であるガルムにとって、上層部が必死に何かを隠し、怯えていることを察知するのは容易かった。
最高幹部たちが恐怖で震えながら極秘裏に処分しようとしていた「禁忌の極秘資料」の断片を、ガルムはプロの技術で盗み見していた。そこには、平原で軍を壊滅させた脅威として『殺風景な大平原に突如出現した【テラス席】と、そこにいたFランクのプレートを下げた不気味な銀髪の少年』という特異な記述が遺されていたのだ。
(ハッ……上層部の奴らめ。何か得体の知れない事態に怯えきって、保身のために隠蔽に走ったな……! だが、ガルバ様が不在となった今こそ、俺が単独でその『特異点』を叩き、暗殺部門の頂点へ一気に成り上がる千載一遇の好機だ!)
暗殺部門のトップへ上り詰めるため、ガルムは上層部の命令を無視して独断専行を決意する。
手がかりもないまま、彼は「手始めに魔王軍すら持て余していたS級ダンジョン『絶望の奈落』を単身で攻略し、誰も成し遂げていない圧倒的な戦果を立てて見返してやる」と、50層へ潜入したのだった。
――そして、S級ダンジョンの過酷な毒気に満ちた50層の深部を捜索すること数日。
彼が「くそっ、やっぱりS級ダンジョンの深部は不快極まりない環境だな……」と舌打ちしていた、その時である。
突然、ダンジョンの一角の空気が一変した。
ドロドロとした湿気や害虫が一瞬で消え去り、遠くから「えぐいほどの心地よいラベンダーの香り」と「ポカポカとした温気」が広がってきたのだ。
S級ダンジョンの死地に唐突に出現した、あり得ないほど快適な空間と、しっかりとジッパーの閉まった一基のテント。
(――な、なんだこの空間は……!? 50層の不快感が一瞬で消えただと……? まさか……あの極秘資料にあった『大平原に異質な【テラス席】を出現させた怪現象』と、全く同じ空間改変か……!?)
テントのジッパーは閉じられており中の姿は見えない。だが、死のダンジョンを塗り替えるこの異常な快適さこそが、平原でガルバ様の一隊を一瞬で呑み込んだ「あの異常空間」と同じ源流であるとガルムは直感した。
(ハッ! 上層部は『関わるな』とビビり散らかしていたが……平原でテラス席を出していた例のFランクのガキが、今度は50層にテントを張って潜んでいるんだな! 臆病な幹部どもが勝手に過大評価して逃げ回っていただけだ……! ここで奇襲して首を狩り取れば、俺の功績だ……!)
S級ダンジョンという緊張感すら打ち砕く理外の空間と、「手柄を独り占めできる」という絶大な狂気に駆られ、ガルムは禍々しい短剣を構えてテントへと肉薄する。
そして、閉ざされたジッパーを容赦なく切り裂き、中の人物へと全身の殺気を叩きつけた――その瞬間。
「ハハハ……死ね、Fランクのガキがぁッ!!」
――だが、この直後。
彼は自らの殺意や気配がテントの【快適化】の法則によって「空間を汚す不快なゴミ」として一瞬で自動消去され、さらに極上のラグマットとハーブティーの前に秒で膝を屈することになるとは、この時のガルムは知る由もなかった。




