第56話:光堕ちする刺客と、新たなる従者
「あの、邪魔なのですが。ドアを開け放たれると、あなたと一緒に外の嫌な気配まで入ってきます。入るならさっさと閉めて正座してください」
ジッパーの隙間から滑り込んできた不法侵入者の気配に眉をひそめながら、私が冷ややかに注意を促す。
すると、殺気満々で突入してきたはずのガルムは「あ、すまん……」と思わず素の声を漏らし、おそるおそるジッパーを閉めると、ぬくぬくのラグマットの上にちょこんと正座した。
先ほどまでの禍々しい刃の煌めきは完全に失われ、その背中にはどこか「見知らぬ豪華な邸宅に上がり込んでしまった訪問客」のような、圧倒的な身の置き所のなさと困惑が漂っている。
そんな刺客の困惑を余所に、アリスが洗練された動作で保温魔法のかかったポットを取り出し、手際よく用意した陶器のカップへ温かいハーブティーを注いだ。
「どうぞ。アレク様のお部屋の空気を乱されたお客様には、まずこちらのハーブティーで心を静めていただきます」
湯気とともに立ち上る甘く優しい香りに誘われ、ガルムは震える手でカップを受け取った。
短剣を握り続けてタコだらけになった武骨な指先が、温かい陶器のぬくもりに触れる。ゴクリと唾を飲み込み、彼はおそるおそるその液体を口に含む。
「う……美味い……。なんだこの温かさは……? 身体の奥底から、固まった血液が溶け出していくようだ……。俺は……俺は今まで、カビ臭い地下室の冷たい石畳の上で、カチカチに凍りついた固いパンをかじりながら殺しの依頼を待っていたというのに……。こんな……こんな暖かくて気持ちいい場所が、この世にあったというのか……!?」
ガルムの目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ち、ラグマットの毛足の中に吸い込まれていく。
長年の暗殺生活と過酷な修羅場で荒みきっていた彼の精神ノイズ――すなわち「殺意」や「敵意」や「功名心」といった荒々しい感情が、この部屋の絶対的な【快適化】によって、綺麗サッパリ「空間を汚す不快なゴミ」として自動消去(浄化)されてしまったのだ。
「……おい、ガキ……いや、アレク様! お願いだ、俺を……俺をこの部屋の『玄関マット掃除担当』として雇ってくれないか!? もう殺し合いなんて嫌だ! 俺はこの温かさと快適さを死守したい!!」
「えっ……? いや、どこの馬骨かもわからない怪しい人は困るのですが……」
急激すぎる態度の一変に私がドン引きしていると、ガルムは正座の体勢からガバッと床に頭を擦り付けた。完全な土下座である。
「ガルムと申します! 忍び足と身軽さには絶対の自信があります! ジッパー周りの砂埃の拭き掃除から、靴の揃え出しまで完璧にこなしてみせます! あと10分……いや一生ここに居させてください!!」
S級暗殺者としてのプライドなど、ぬくぬくのラグマットとハーブティーの前には塵同然だったらしい。必死すぎる表情で擦り寄ってくる彼を見下ろし、私は深く、深いため息をついた。
「……はぁ。アリスさん、彼に予備のスリッパをあげてください。足下が冷えてお腹でも壊されたら、部屋の快適度が下がって迷惑ですから」
「かしこまりました。お靴の汚れをしっかりと落とさせまして、専用のスリッパをご用意いたします。……それにしても、アレク様のお部屋の素晴らしい快適さの前には、どんな凶悪な刺客すら一瞬で心酔してしまうのですね」
アリスが実に誇らしげな微笑みを浮かべ、リュックのサイドポケットからふんわりとしたパイル地の上質な室内用スリッパを取り出す。
ガルムはまるで神聖な神器でも授与されるかのように、両手で恭しくそれを受け取ると、感泣しながら深く何度も頭を下げた。
「ありがたき幸せ……! このガルム、アレク様の玄関先の安寧のため、命を賭して清掃に励みます……!」
こうして、快適さに完敗してすっかり光堕ちした刺客ガルムを新たな雑用係(スリッパ履き・玄関清掃担当)として従え、私たちの「ドラゴン綿毛採取(究極のマットレス作り)」の旅は、いよいよ目的のドラゴンが棲まう最深部へと進んでいくのだった。




