第53話:アレクの制約と「究極の目標」
「……ダメですね、このマットレス。頭と首の隙間に『0.5ミリの違和感』があります……」
爽やかな朝の光が差し込むベッドの上で、私は重い溜息をついた。
我がヴァルハイト伯爵家の離れにある自室は、私の【部屋で快適に過ごす】スキルによって常に完璧な環境に保たれている。
室温は最も心地よい22度、湿度は喉や肌に優しい45%。ホコリ一つ許さない自動清掃の効果も相まって、まさに至高の引きこもり空間だ。
だが、私のスキルをもってしても、家具そのものが持つ物理的な限界までは覆せなかった。
どれほど環境を整えようと、土台となるマットレスの内部密度が不足していれば、頭を預けた瞬間にわずかな沈み込みの偏りが生じてしまう。
この『0.5ミリの違和感』――これこそが、私の健やかな目覚めを阻む巨大な壁だった。
それに、私には一つ困った弱点がある。
私のスキルは発動さえすれば、どんな劣悪な環境であっても一瞬で快適な空間へ上書きできる。だが、私のメンタルは自分でも呆れるほど極度に繊細だった。
スキルを起動するまでのほんの数秒であっても、湿度が50%を超えていたり、空気にわずかな埃っぽさを感じたりしただけで、私の繊細な神経は激しいストレスを感知してしまう。
すると、一瞬でテンションがどん底まで急降下し、まるで精巧な置物のように一歩も動けなくなってしまうのだ。
「快適さを追求し続けるあまり、不快な環境に置かれると即座に機能停止する」という、インドア派としてあまりにも致命的な体質と言えた。
「アレク様、おはようございます! 朝食のフレンチトーストをお持ちいたしましたよ……あら? どうなさったのですか、そんなに難しそうなお顔をされて?」
コンコンと控えめなノック音とともに、専属メイドのアリスさんが銀のトレイを手に部屋へ入ってきた。
トレイの上には、香ばしく焼き上げられたフレンチトーストから甘いバターと蜂蜜の湯言が立ち上っている。
いつもなら真っ先にフォークを伸ばすところだが、今の私にはそれ以上に解決しなければならない重大な問題があった。
私はベッドからゆっくりと腰を上げ、真剣そのものの面持ちでアリスさんに向き合った。
「アリスさん。私は決めましたよ。私は……『移動式・絶対不可侵の究極幻影鑑賞室付き要塞』を創り上げることにします」
「……要塞でございますか? いえ、その……げんえいかんしょうしつ……とは……?」
アリスさんがスープカップを置く手を止め、パチクリと可憐な目を丸くする。
「ダンジョン最深部に眠るという伝説の触媒『創世の神座』を核とし、世界中のあらゆる極上素材を集めて、外敵も不快感も一切寄せ付けない最高の引きこもり空間を完成させるのです。そのために必要な第一の素材を得るため……私は外へ出ます」
「あ、あのアレク様が……『お外』に出られるのですか……!? 太陽の光が差す、あの恐ろしい外の世界に……!?」
アリスさんは目を見開いたまま、スープカップを手に固まっていた。
普段まったく屋敷から出ない私が「外出する」と言い出したのだから、無理もない反応だ。
だが、私の決意は固かった。
目指すは前人未踏と呼ばれる『S級深層ダンジョン』。
そしてそこにしか生息しない伝説の超巨大魔獣――『天界龍』の極上綿毛……!
あの超高密度かつ柔らかで弾力に満ちた綿毛さえ手に入れば、私の頸椎を完璧な角度で包み込み、あの忌々しい0.5ミリの違和感を完全に消し去ってくれる「究極の低反発マットレス」が完成するのだから。
「アリスさん、紅茶のおかわりは帰ってきてからいただきますね」
理想の安眠を手に入れるため、私は嫌々ながらも、ついにその重い腰を上げたのだった。




