第54話:過酷なダンジョンと、スキルが使えない「虚無空間」
「うぐっ……不快です……! 湿度が60%を超えています……! 床もヌメヌメしていて、足を踏み出す気すら起きません……!」
足元から這い上がってくる劣悪な湿気と悪臭に、私はその場にへたり込みそうになっていた。
ここはS級ダンジョン『絶望の奈落』の第50層。
普段の自室や明確な『部屋』であれば、私の【部屋で快適に過ごす】スキルで一瞬にして至高の空間へ上書きできる。
だが、この階層は壁も天井も存在しない、見渡す限り泥と闇が広がる『虚無空間』だった。
以前のようにパラソル等を立てて『テラス席』と認定できるほどの甘い環境ではない。
四方をしっかりと遮られた明確な『部屋』を創らなければ、この劣悪な環境を書き換えることすら叶わないのだ。
「ア……アレク様、しっかりなさってください! テンションの低下により、魂が口から抜けかけております……!」
「アリスさん……ダメです……。空調の効いていない空間に3秒以上晒されたことで、私の心が折れかけています……」
「アレク様、意識をお保ちください……! 上空からS級魔獣『虚無の羽虫』の大群が迫ってきております!」
悲鳴交じりに叫ぶアリスさんの声を、私は半分ほど聞き流しながらリュックへ手を伸ばした。
普段なら「不快な害虫」として自動で消し去れる相手だが、空間の概念がないこの場所では消去すら働かない。
迫りくる不快な羽音と、靴底を汚す泥の感触。
だが、ここで倒れ伏せば、目的の『天界龍』のふわふわ綿毛も、究極の低反発マットレスも夢のまた夢だ。
「くっ……! 部屋がないなら、『即席の部屋』を創るまでです……!」
私はリュックから、ギルドの購買部で購入しておいた『簡易展開式幕舎』を取り出し、ぬかるんだ地面へ叩きつけた。
「アリスさん、テントの設営をお願いします! 大至急です!」
「は、はいっ! お任せくださいアレク様!」
アリスさんが素早く杭を打ち込み、わずか3平方メートルの「囲まれた布の中」を構築した瞬間――私は滑り込むように内部へ飛び込んだ。
(定義開始。対象:この簡易テント内。ここを私の『一時的な自室』と認定する)
【スキル:部屋で快適に過ごす(出力:40%)】
脳裏にスキル起動の感触が走ると同時に、ズキリと激しい痛みが頭を締め付けた。
不完全な空間で無理やり高出力を引き出せば、脳を直接殴られたかのような頭痛が襲いかかってくる。
「……くっ……! アリスさん、激しい頭痛が……例のものを……!」
「アレク様、こちらです! あらかじめ用意しておいた激甘の特製紅茶でございます!」
テントへ滑り込んできたアリスさんが、魔法瓶から手際よくカップへ注いだ熱々の紅茶を差し出してくれる。
砂糖を極限まで溶かし込んだ甘い紅茶を喉へ流し込むと、スキルの過負荷で消耗した脳に糖分が染み渡り、猛烈な頭痛が少しずつ引いていった。
「ふう……助かりました、アリスさん」
「お口直しに、こちらもどうぞ」
そう言ってアリスさんが私の手の上にそっと載せてくれたのは、一粒のアメ玉だった。
スキル使用後の糖分補給と口直しとして、アリスさんがいつだって準備してくれているイチゴ風味のアメ玉だ。
口の中に広がる優しい甘みにほっと息をつくと、外で荒れ狂っていた湿気やヌメり、羽虫の不快な羽音が、テントの布地一枚を隔てて嘘のように遮断されていることに気づいた。
(出力は40%……ですが、なんとか『一時的な自室』として機能してくれたようです)
甘いアメ玉を転がしながら、私は深く安堵の息を漏らした。




