第49話:最高に快適な休日と、影で消えゆく「王宮の密偵」
一方、秋の柔らかな陽光が降り注ぐヴァルハイト伯爵邸の庭。
「アレク様ー! 本日の焼き立てクロワッサンと、淹れたての珈琲をお持ちしました!」
アレクの「自称・専属掃除係」であるアリスが、焼き上がったばかりのパンの香ばしい匂いが漂うバスケットを両手に抱え、軽快な足取りで離れへと向かっていた。離れで過ごすアレクの午後のひとときを最高のものにしようと、その表情は実に晴れやかだ。
だが、離れまであと数十メートル――彩り豊かな手入れされた生け垣の陰で、ササッと小さな異音が響き、怪しい影が素早く蠢いた。
「(ちっ……王宮からの正式な使者が門前払いされたと聞いて忍び込んでみれば、なんという厳重な警戒だ……だが、この俺の『隠密歩行』を見破れる者などおらん)」
影の正体は、王立騎士団長が密かに派遣した『極秘スカウト部隊』の超一流の密偵だった。
レオン行政監察局長の手によって、騎士団の親書が『管轄外の不法要求』として冷酷に突っぱねられ、正式なルートがすべて封鎖されたため、焦った騎士団長は直接アレクに「騎士団長就任」を直談判しようと、この影のプロフェッショナルを送り込んだのだ。
密偵は気配を完全に遮断し、アリスがバスケットを運ぶ一瞬の隙を突いて、離れの開いた窓へと弾丸のような速度で飛び込もうとした。
――その、瞬間。
『ピキィン!』
アリスの固有スキル『魔力視覚』が、静寂な庭園に生じた微かな空気の乱れと、生け垣の奥に潜む不快な焦り・殺気を正確に捉えた。
アリスはピタリと足を止めた。片手でバスケットを完璧な水平に保持したまま、ゆっくりと首を巡らせる。
先ほどまでの明るい表情は影を潜め、氷のように冷酷な眼光が生け垣の闇へと注がれた。
「……不愉快ですね」
アリスは腰のホルダーに挿していた、日頃愛用しているお掃除用の『魔導はたき』を静かに引き抜いた。見た目こそポンポンがついた掃除道具だが、彼女がそれをスッと構えた瞬間、庭園全体の空気が凍りついたかのように重く沈み込む。
「アレク様は今、人生で最も集中して読書を楽しまれている最中なのです。そのような薄汚い格好の人間が離れに近づき、万が一にもアレク様の視界に『不快な汚れ』として映り込んだら……どのように責任を取るつもりですか?」
「な……なんだこのメイドは!? 殺気を出した瞬間、魔力が異常なまでに跳ね上がって――ひっ!?」
密偵は己の肌を叩く凄まじい威圧感に、全身の毛穴が開くほどの恐怖を覚えた。目の前に立つメイド服の少女が、王立騎士団の猛者たちすら束になっても敵わないような「異常な領域の存在」であることを、本能が警鐘となって鳴らし続ける。
「アレク様の快適な空間のために……お掃除(消去)いたします」
『ドカンッ!!』
密偵が逃走の体勢に入る間すら与えられなかった。
アリスが「はたき」を一閃させた瞬間、空気が超高圧で圧縮され、凄まじい衝撃波が爆発的に弾けた。庭の木々が激しく揺れ、衝撃の余波だけで地面の芝生が同心円状に押し潰される。
直接打撃を受けた密偵は、悲鳴を上げる暇すらないまま弾丸と化し、遥か雲の彼方――王都の外郭を超えた遠くの空へと一直線に吹き飛んでいった。
「ふぅ……お庭の害虫駆除も完了いたしました」
アリスははたきについた目に見えないホコリをパンパンと払い、腰のホルダーへと戻した。そして、エプロンのシワを丁寧にととのえると、何事もなかったかのように可愛らしく微笑み、離れの玄関へと歩みを進めるのだった。




