第42話:世界が揺れても、部屋の湿度は譲れない
そんな魔王城の壮絶な動向など知る由もない私は、朝刊を傍らに置くと、二杯目のカフェオレを優雅に飲み干した。
秋の爽やかな風が、テラス席の木漏れ日を心地よく揺らし、街路樹の葉をサワサワと鳴らしている。ストローで氷をカランと鳴らし、口の中に残る甘みを喉へと流し込んだ。
「ふぅ……満足した。さて、アリスさん」
「はいっ! 何でしょうアレク様!?」
向かいの席に座っていたアリスが、弾けるような笑顔で身を乗り出してきた。その澄んだ瞳はキラキラと期待に満ちあふれている。
「もしや、新たな『お掃除』のご命令でしょうか!? 先ほどのように立ちふさがる不快な障害にとどまらず、潜伏する悪しき存在を根こそぎ排除するための次なる神罰をお下しに……!?」
「いいえ」
私は静かに首を横に振った。物騒な単語を平然と口にするアリスに苦笑しながら、カップをソーサーへと戻す。
「自室に帰って、昨日回収した『永久温調の魔石』の微調整をします。少し湿度が0.5%高い気がするので」
「し、湿度……0.5%、ですか!?」
「ええ。昨夜、ベッドに入った際に肌に触れる空気の粘度がほんのわずかに高かったんです。快適な睡眠環境を維持するためには、室温二十二度、湿度四十五%が絶対の最適解。0.5%のズレは、明日の作業効率に重大な支障をきたしかねません」
「おぉ……! どこまでも繊細で完璧な室内環境へのこだわり……!!」
アリスは感極まったように両手を胸の前で組み、うっとりとした目で私を見つめた。
「世界を揺るがす大悪を何一つ痕跡を残さず消し去りながら、ご自身の私生活におけるわずか0.5%の誤差すら見逃さないその妥協なき姿勢……! まさに至高の領域! どこまでも、どこまでも御供いたしますわ、アレク様!!」
「そこまで大層な話ではないのですが……まあ、手伝ってくれるなら助かります」
私は伝票を手に取り、席を立った。
カフェを出て大通りへと差し掛かると、そこかしこで号外を手にした人々が興奮気味に議論を交わし、街全体が「十万の魔軍消滅」と「謎のFランク」の話題で空前の大騒ぎとなっていた。
世界中のギルドや情報機関も、今頃この未曾有の事態の真相を追ってひっくり返るような大パニックに陥っていることだろう。
だが、そんなお祭り騒ぎも、私にとってはどこか遠い他人事に過ぎなかった。
私にとって何より重要なのは、今日の夜、完璧に調整された自室のふかふかのベッドで、何にも邪魔されずに極上の睡眠をとれるかどうかだけだ。
世界がどれほど騒ぎ立てようとも。
魔王軍がどれほど脅威を振るおうとも。
私は私の「部屋」で、最高に快適で、最高に省エネな日々を過ごし続けるだけだ。
それが、世界がどう騒ごうと関係なく、ただ最高の快適さを愛する私の、揺るぎない日常なのだから。




