第35話:迫り来る十万の軍勢と、優雅すぎる迎撃準備
実家の屋敷全体を「自動リフォーム」し、ついでに父の長年の肩こりを綺麗さっぱり消去してから数日。
ヴァルハイト伯爵家を包む空気は、文字通り一変していた。
「あ、アレク様! 本日の朝食でございます! もしお口に合わなければ、何なりとお申し付けください! すぐにお作り直しいたしますので……っ!」
「アレク様、お召し物のお手入れはすべて完了しております! 畳み方や配置など、何かご不満な点はございませんでしょうか!?」
廊下を歩くだけで、給仕のメイドや執事たちが壁際に美しく直立し、まるで高貴な神仏でも迎えるかのように深々と頭を下げる。息を殺し、私の一挙一動に怯えるような視線を注ぐその様は、丁寧を通り越して明らかに異常だった。
あの日まで冷淡そのものだった父は、離れで起きた不条理な現象に完全に打ちのめされたらしく、執務室に閉じこもったきり指一本出てこなくなっていた。そして使用人たちに至っては、もはや私を「怒らせてはならない絶対的な何か」として敬い、畏怖していた。
(……非常にやりづらい)
私にとっての「最高の環境」とは、豪奢な部屋でも過剰な手厚い給仕でもない。「空気のように周囲から無視され、誰の邪魔も受けずにダラダラ過ごせる空間」だ。
これほど過剰な配慮や痛いほどの視線を向けられては、それ自体が精神的なノイズとなり、私の省エネ生活にとって甚大な障害にしかならない。
「はぁ……ギルドへ避難するか」
私は小さく溜め息をつき、身軽な軽装のまま、静まり返る屋敷を後にすることにした。
重厚な屋敷の門を抜けると、横には当然のような顔で、美しいポニーテールを揺らすアリスがぴったりと寄り添ってくる。私の「専属掃除係」を自称する彼女は、相変わらず凛とした立ち姿で私の半歩後ろを追従していた。
「アレク様、本日はどちらの『お掃除』へ向かわれますか?」
「アリスさん、今日は仕事の予定はありません。静かに街のカフェで読書を楽しむつもりです」
私は極力感情を交えずに答えたが、彼女の瞳がキラリと輝いた。
「なるほど……! 『何もしない』ことによる極限の環境制御ですね。さすがはアレク様です」
「……」
相変わらずの凄まじい脳内変換だ。否定するのも説明するのもエネルギーの無駄なので、私は黙ってそのまま王都のメインストリートへと歩みを進めた。
爽やかな風が吹き抜け、露店からは香ばしい焼き菓子の匂いが漂う。カフェのテラス席で陽光を浴びながら、冷たい紅茶と本を楽しむ——そんな理想的な「何もしない一日」が始まるはずだった。
だが、王都の平和で穏やかな空気は、突如として天を突くように鳴り響いた「警戒の鐘」によって無残に破られた。
『カン! カン! カン! カン!』
街全体に激しく反響する、王室緊急事態を告げる大鐘の重苦しい音。
ただ事ではない鐘の連続音に、行き交う人々は足を止め、露店の商人たちは顔を見合わせ、一瞬で街から穏やかな色彩が失われていった。




