閑話:影の計算と、父親の現実逃避
薄暗い部屋の中で、羊皮紙に記された報告書を指でなぞる男——ガルバがいた。
彼はただ淡々と、一人の少年……アレク・ヴァルハイトの動向を独自に観察し、調査し続けていた。
「……薬草採取の件に続き、今度は屋敷の一瞬での修繕と、当主の不調消滅か」
ガルバの低い呟きが、静まり返った室内に重く落ちる。
手元の報告書に刻まれているのは、常識を根本から揺るがす異常事態の数々だ。
至極ありふれた薬草を、一歩も危険を冒すことなく【最高品質】へと変貌させ、あり得ないほどの【大量回収】を一瞬でやってのけた薬草採取の件。
そして本日、離れで起きた決定的な現象——物理的な構造や距離をことごとく無視し、指一本触れずに巨大な屋敷全体を最高級の空間へと作り変え、当主ガルダスの長年の身体の不調すら消し去ってみせた件。
「仮に暗殺や毒殺、不意打ちを試みたところで……あらゆる『個』による奇襲は意味をなさないな」
ガルバの頭脳は、一切の感情を排して状況を冷徹に分析していた。
アレクの持つスキル【部屋で快適に過ごす】。その本質は、彼を中心とした領域内において、彼の『快適さ』を害する一切の要素を自動的に排除・改変する絶対的な防衛機構だ。
刺客を差し向けたところで、アレクにとっては『快適な睡眠を邪魔する不快なゴミ』や『雑音』として認識され、接近した瞬間に自動処理されるのが目に見えている。
「スキルの発動判定範囲、および処理の許容量……そこには必ず物理的な限界が存在するはずだ。個の力で突破できないのであれば——」
ガルバは静かに羊皮紙を折りたたむと、暗闇の中に冷たい眼光を走らせた。
「無数の圧殺。一度に判定許容量をオーバーフローさせる、十万という圧倒的な数の暴力で押し潰すほかない」
常人では到底発想し得ない、規格外の怪物に対する唯一の解答。
ガルバは迷うことなく立ち上がると、その『十万の軍勢』を動かし得る唯一の存在——魔王への直接の進言へと向けて、静かに影の中へと消えていった。
---
一方その頃。
ヴァルハイト家の執務室では、当主ガルダスがガタガタと全身の震えを止められずにいた。
離れから命からがら逃げ帰り、重厚な扉を閉めてなお、背筋を這い上がる不快な汗が吹き出して止まらない。手袋をはめた己の手を見つめ、痛みの完全に消え去った自らの肩を触り、ガルダスは絶望に顔を歪めた。
(雑音……だと……? 私の身体の不調も、私の声も、すべてただの雑音として消去したというのか……!?)
恐ろしい。息が詰まるほどの恐怖だ。
指一本触れられず、言葉を交わしたわけでもないのに、己の存在そのものを「ゴミ掃除のついで」のように扱われたのだ。
ガルダスは頭を抱え、重い沈黙の中でガリガリと爪を立てた。
脳裏に濁流のように溢れ出してきたのは、ずっと心の奥底に封印していた、あの忌まわしい過去の記憶だった。
——あの日。大聖堂で行われた、スキル授与の儀式。
大聖堂全体が揺れるほどの魔力の奔流。
『おお……っ! この光は……!』と身を乗り出した己の興奮。
石盤の表面に古代文字が刻まれ、神童と呼ばれた我が子の輝かしい将来を確信していた、あの瞬間。
しかし、大神官の顔が凍りつき、掠れた声で読み上げられた真実。
『候補者アレク。『授与スキル』……【部屋で快適に過ごす(ランクF)】』
父である自分の声は裏返り、大聖堂を包んでいた熱気は潮が引くように消え去った。
失笑と嘲笑の嵐。記者たちの容赦ないカメラのフラッシュ。アカデミーのスカウトが興味を失って背を向ける気配。
『バカな……私の完璧な教育が……我が家の名誉が……』
怒りと恥辱で顔を蒼白にし、冷酷な失望とともに『ヴァルハイト家の面汚しめ』と吐き捨てて、幼い息子を置き去りにして一人で大聖堂を去った。
(そうだ……私はあの日、あいつを切り捨てた……『無能』と決めつけて離れに追いやり、見捨てたのだ……!)
だが、ガルダスの胸を鋭く刺し穿つ本当の後悔は、そこではなかった。
あの日、大聖堂で激しい嘲笑と哀れみの視線を浴びながらも、幼いアレクは涙一つ流さなかった。ショックを受ける様子もなく、まるで周囲の狂乱など初めから存在しないかのように、ただ異様なほどの冷静さで淡々と己の手元を見つめ、スキルの確認に集中していたのだ。
周囲の大人たちが狂乱し、父である自分が激昂する中で、アレクだけがただ一人、凡人の理解が届かない場所に立っていた。
(私は……分かっていたのだ……。あいつのあの瞳……あの常軌を逸した冷徹さと異質さに……あの日、すでに気づいていたのだ……!)
父親であり、当主である自分が、その正体不明の『恐怖』と正面から向き合うのが恐ろしかった。
だからこそ、「ランクFのハズレ能力」「名門の面汚し」という都合のいいレッテルを貼り、離れに押し込めて存在ごと目を背けた。そうして見ないフリを決め込み、現実逃避を決め込んでいたのだ。
(私は……あいつが『無能』であってほしかったのだ……!!)
自分の弱さから目を背け、放置し続けた結果。
離れの中に閉じ込められていたのは『哀れな無能』などではなく、自分の理解を遥かに超越した、不可侵の怪物だった。
手遅れになった今となっては、もうどうすることもできない。
ガルダスは暗い執務室で一人、顔を覆いながら、過去の自分の浅はかさと圧倒的な怪物への恐怖に、ただガタガタと震え続けることしかできなかった。




