閑話:影の英雄と、ギルドマスターの決断
ギルドマスター室の広大な窓から見下ろす街には、いつもの穏やかな灯りがともっていた。
重厚な執務机の上に、男は深々と煙草の紫煙を吐き出した。
デスクの上には、王立騎士団やギルド本部から次々と届いた緊急報告書が山のように積み上がっている。どれもが本来であれば、国全体を震撼させる絶望的な事態を告げるはずのものだった。
しかし、その一番上に置かれた最終報告書の結論だけが、異彩を放っている。
――『S級ダンジョン発生。内部からの暴走魔力、沈静化を確認。犠牲者、被害共にゼロ』。
「……ふっ、ハハハ! 犠牲者ゼロ、だと……!?」
男は思わず背もたれに身体を預け、嘲るような、そして深い感嘆の混ざった高笑いを漏らした。
普通であれば、国が一つ傾くほどの未未曾有の大災害だ。もしギルドの規定通りに正規のS級・A級パーティを総動員して突入させていれば、どうなっていたか。間違いなく凄惨な血の海となり、どれほど優秀な冒険者たちの命が失われていたか分からない。
だが、あの少年が動いた。同行者であるアリスを伴って、たった一人で。
「F級冒険者アレク……。今回もまた、我々の知らぬところで世界を救ってみせたというのか」
本来、ギルド規約において最高警戒度のS級ダンジョンにF級冒険者が足を踏み入れるなど、口が裂けても許されることではない。現場の警備兵や騎士団によって即座に拘束され、追い返されるのが常識だ。
だが、あの最悪の異変が発生した直後、アレクがアリスを連れて一切の躊躇もなく現場へと向かったという緊急報告が届いた。
その報告を受けた瞬間、ギルドマスターは一瞬の迷いもなく自身の持つ全権限を行使したのだ。
『アレクとアリスの立ち入りを一切妨害するな。現場の警備陣には“特例措置”として道を開けさせろ。責任はすべて俺が負う』
現場の混乱に乗じ、不要な制止やくだらない質問でアレクの手足を引っ張ることがないよう、裏で徹底的に手を回したのは他ならぬギルドマスター自身だった。
「誰もが恐怖に立ちすくみ、命惜しさに動けなくなる中で、お前だけは迷わず現場へ突入していった……。己の危険など一顧だにせず、ただ人々を守るために真っ先に立ち上がる。まさに『影の英雄』だ……」
ギルドマスターは噛み締めるように呟き、静かに目を閉じた。
世間や騎士団は「奇跡的に崩壊が収まった」「ダンジョンの活性化がたまたま沈静化した」などと呑気な分析をしているかもしれない。だが、ギルドマスターだけは本当の真実を知っている。
あの絶望的な暴走を、犠牲者ゼロ・被害ゼロという完璧すぎる形で収束させられる人間など、この世界にアレクただ一人しか存在しないということを。
「あいつは決して名誉も、莫大な報酬も求めない。だからこそF級という最低ランクの地位に身を置き、誰に誇ることもなく影から世界を守り続けているのだな……」
男は短くなった煙草を灰皿に押し付け、静かにペンを執った。
「……アレク。お前がその高潔で崇高な意志のもと、この街と人々を守り続けるというのなら、俺の成すべき役目は決まっている」
ギルドマスターは、今回の事案に関する裏工作と隠蔽処理の報告書に、力強く承認の判を押した。
「お前やその周りの者が表舞台で余計な雑音や煩わしさに巻き込まれないよう、俺が影からいくらでも泥を被り、完璧な道を整えてやる。……感謝するぞ、無名の英雄よ」
静まり返った執務室の中に、男の重々しくも絶対的な誓いが響いていた。




