第16話:妄執の観測記録と、定刻の帰路
「「「………………え?」」」
遠巻きに見ていた三人の探索者たちは、開いた口が塞がらず、膝から崩れ落ちた姿勢のまま呆然と固まっていた。
五百の軍勢。王都の騎士団すら出動するはずだった、絶望的な規模の魔物の大暴走。
それが、たった一人の少年が網戸を張り、ただ小さく息を吐いただけの、まるで欠伸でもするかのような無造作な動作で、跡形もなく消え去ったのだ。
眼前で起きた出来事のスケールと、それを引き起こした少年のあまりの脱力感。その途途もない落差に、言葉すら失った探索者たちは、ただ恐怖と畏怖の入り混じった冷や汗を流しながらガタガタと震えることしかできない。
だが、そんな周囲の混乱や静寂をまったく意に介さず――
アリスだけは、全身の血が逆流するような強烈な衝撃とともに、猛烈な速度で手帳にペンを走らせていた。カリカリと羊皮紙を削る不快なまでの摩擦音が、静まり返った平原に響き渡る。
「あ……ああ……っ! なんという過剰にして完璧な空間定義……!」
アリスの瞳が、狂信的なまでの熱を帯びて爛々と不気味に輝く。息を荒らげ、体中の毛穴が開くような感動に打ち震えながら、彼女はペンを走らせる手を止めない。
「薄布一枚で境界を固定し、襲来する殺意そのものを『不快な環境要因』として自動排除された……! あれほどの大軍勢を、ただの『ホコリ』として処断されるとは……!!」
アリスはガタガタと膝を震わせ、そのまま私の足元へ激しくひれ伏した。額を地べたに擦り付けんばかりの体勢で、過剰なまでの敬意を全身から発している。
「恐ろしい……恐ろしいお方ですアレク様! あなたは最初からこの大暴走すら見通した上で、あえてこの地で冷茶を楽しんでいらしたのですね……!?」
「いいえ。ただ動くのが面倒だっただけです」
私は冷茶の残りを飲み干し、空になったグラスを静かに置いた。しかし、彼女の耳には私の素直な不精など届くはずもなかった。
「あぁ……なんという深謀遠慮……!」
うっとりと頬を染め、恍惚の表情で震えるアリス。
……ダメだ。この少女、何を聞かせても勝手に「深遠な策略」へ脳内変換してしまう。重症だ。
これ以上説得しようとしても時間と体力を無駄にするだけなので、私は小さく溜め息を吐き、手元の懐中時計の蓋をパチリと開けて目を落とした。
「よし。午後四時五十分。……そろそろギルドへ向かえば、窓口が混み合う前の五時に到着しますね」
私はタープから『防虫用蚊帳ネット』を取り外し、小さく折りたたんでポケットへ仕舞った。続いて日よけのタープとクッションを手早く畳み、寸分の狂いもなくリュックの定位置へ手際よく収めていく。無駄のない、徹底して省エネ化された撤収作業だ。
「アリスさん、撤収です。混雑に巻き込まれると余計な時間を取られますから」
「ハッ! どこまでも御供いたします、アレク様!!」
背後では、未だに事態を飲み込めず、膝から崩れ落ちて呆然とこちらを見送るだけの三人組が残されている。そんな彼らを容赦なく置き去りにし、私はリュックの背負い紐を軽く整えた。
西の空が朱色から濃い紫へと移り変わっていく。私たちは夕焼けに美しく染まる平原の一本道を、いつも通りの静かで無駄のない足取りで歩き出したのだった。




