第6話:概念の壁と、招かれざる客①
「は……? 狭くなるから……断る……!?」
銀髪の女――アリス・フォスターは、床に両手をつき、泥と自分の血を垂らした姿勢のまま間抜けな声を漏らした。
王立アカデミーの特待生であり、名門フォスター家の天才と謳われた彼女にとって、自らの頼みを立ちどころに一蹴された経験など、15年の人生の中で一度もなかったのだろう。血みどろの顔で目を見開き、信じられないものを見るような顔で呆然と俺を見つめている。
「な、なぜ……っ、ゴホッ……!? 私は……っ、こう見えて『魔力視覚』と……高位解析の固有スキルを……持っていますっ! あなたの『領域』のサポートも……ダンジョン攻略の記録も……何でも……っ」
「要りません」
俺は魔法保温筒のキャップを緩め、セラミックのマグカップへぬるいお茶を少し注ぎ足した。ゆらりと立ち上る香ばしい湯気が、静まり返った空間に不釣り合いなほど穏やかに漂う。
「サポートも記録も不要です。俺は静かに、快適に、定時で試験を終わらせて帰りたいだけなんで」
「て、定時……っ!? ダンジョン攻略に……定時なんて概念が……どこに……っ」
「あります。俺の心の中に」
きっぱりと言い切ると、アリスは血の混じった唾を飲み込みながら、ぐうの音も出ない様子で絶句した。
一方、状況にまったく追いつけていないガルドたちは、顔を青くしたり赤くしたりしながら、交互に俺とアリスを見つめていた。ダンジョンボスが一瞬で消え去り、急に高級ホテルのようなエアコンの効いた快適な空間に変わり、挙句の果てには死にかけのアカデミー特待生がゴミスキル持ちの俺に縋りついている。彼らの処理能力はとっくに限界を超えていた。
「おい……アリスと言ったか? お前、騙されてるぞ!」
ガルドが膝をガタガタと震わせ、掠れた声を張り上げる。
「あいつはただの『荷物持ち』だ! ヴァルハイト家の面汚しで、授かったスキルもFランクの『部屋で快適に過ごす』とかいうゴミ――」
「う……うるさ……っ……バカ……ッ!!」
アリスが血走った眼光でガルドを睨みつけ、激しく咳き込んだ。床にボタボタと赤黒い血を撒き散らしながら、鬼気迫る表情で叫ぶ。
「Fランクだから……何だというのです……っ! あの人はスキルの……『定義』そのものを拡張して……世界の法則を上書きしてるのですよ……っ! 自分の無知を晒して……恥ずかしく……ないのですか……っ!」
「ひっ……っ!」
死にかけの癖に凄まじい鬼気を放つアカデミー特待生に圧倒され、ガルドは引きつった顔で言葉を詰まらせ、無様に後ずさった。腰が抜けかかったままズリズリと後退する姿は実に無様だ。
(……まあ、ガルドたちの反応の方が世間一般としては正しいな。わざわざ種明かしをして面倒な注目を集めるつもりもない)
俺のスキルはどこまでいっても「部屋で快適に過ごすための裏技」の集合体に過ぎない。10年間、一人で部屋の掃除や環境構築のバグを検証してきた結果だ。大層な「概念改変」なんて持ち上げ方をされて、ギルドや国から厄介な任務を押し付けられるようになったら目も当てられない。俺の望みは「省エネでマイペースな生活」ただ一つなのだから。
俺は胸ポケットから、表面のメッキが剥げた安い懐中時計を取り出し、パチリと蓋を開けて時間を確認した。
(よし、試験の規定時間はまもなく終了だな。これ以上ここにいても不毛だし、さっさと荷物をまとめて撤収するか)
手早くマグカップを拭いてリュックに放り込み、立ち上がろうとした――その時だった。




