第37話 崩落
最初に聞こえたのは悲鳴ではなかった。
低い音だった。
遠雷にも似ている。
だが違う。
建物そのものが唸っている音だった。
カイは顔を上げる。
天井の照明が小さく揺れていた。
「……なんだ?」
ロイドも気付いたらしい。
眉をひそめる。
その時。
建物全体が大きく傾いた。
床が波打つ。
椅子が滑る。
食器が落ちる。
誰かが悲鳴を上げた。
「地震か!?」
「違う!」
マスタングが叫ぶ。
その顔は青ざめていた。
窓の外を見ている。
カイも振り返る。
そして言葉を失った。
向かいのビルが傾いていた。
ゆっくり。
だが確実に。
二十七年の塩害と浸水で腐り切った巨人が、ついに力尽きたように。
そして。
崩れた。
轟音。
粉塵。
数十階分のコンクリートが落下する。
その瓦礫が隣のビルを直撃した。
「まずい!」
マスタングが怒鳴る。
だがもう遅い。
二棟目が傾く。
三棟目も。
金融街の高層ビル群が、まるでドミノみたいに崩れ始めた。
「全員外へ出ろ!」
怒号が飛ぶ。
難民たちは一斉に動いた。
老人。
子供。
女。
全員が階段へ殺到する。
押し合い。
怒鳴り声。
泣き声。
誰も整列などしていられない。
死にたくない。
それだけだった。
*
階段は地獄だった。
途中で壁が裂ける。
照明が落ちる。
階下から悲鳴が響く。
誰かが転んだ。
さらに誰かが躓く。
「立て!」
「押すな!」
「子供がいる!」
混乱の中。
カイは見覚えのある顔を見つけた。
数日前。
ガチャを諦めて戻ってきた男だった。
黒蜜を前にして最後の一歩が踏み出せなかった男。
あの時は皆に笑われた。
臆病者だと。
だが本人は笑っていた。
死ぬよりマシだと。
その男が今、瓦礫の下敷きになっていた。
「助けてくれ!」
足が挟まっている。
まだ生きている。
カイは思わず足を止めた。
だが次の瞬間。
天井の一部が崩れ落ちた。
コンクリート片が男の上へ降る。
悲鳴が途切れた。
誰も何も言わなかった。
言えなかった。
助けられない。
全員が分かっていた。
*
さらに下る。
建物が軋む。
傾く。
階段そのものが崩れ始めていた。
「急げ!」
マスタングが先頭で叫ぶ。
モーゼスが転びそうになりながら続く。
その途中だった。
金属探知機が肩から外れた。
手すりを越えて落ちる。
「クソ!」
モーゼスが振り返る。
十年以上使ってきた道具だった。
仕事の相棒だった。
だが。
「置いてけ!」
マスタングが怒鳴る。
「まだ取れる!」
「死ぬぞ!」
その瞬間。
後方の通路が崩壊した。
瓦礫が落ちる。
探知機は完全に見えなくなった。
モーゼスは数秒固まる。
そして舌打ちした。
「クソッ!」
走るしかなかった。
*
ようやく外へ飛び出した時。
金融街は別世界になっていた。
ビルが消えている。
さっきまで存在した建物が瓦礫の山になっていた。
濁流。
粉塵。
崩壊音。
まだどこかで何かが倒れている。
マスタングは生存者を集めた。
人数を数える。
何度も数える。
結果は変わらなかった。
「……これだけか」
十数人。
難民コミュニティは五十人近くいた。
半分どころではない。
大部分が消えていた。
老人たちも。
子供たちも。
コックローチも。
戻らなかった。
生きているのか。
死んだのか。
確かめる術もない。
誰も喋らなかった。
その時。
岸辺を見に行った難民が叫ぶ。
「ボートが!」
全員が振り返る。
そして絶望した。
唯一の船だった。
金融街と外界を繋ぐ命綱。
それが瓦礫に押し潰されていた。
原形すら残っていない。
沈んでいる。
モーゼスが笑った。
乾いた笑いだった。
「終わったな」
誰も否定できなかった。
金融街は孤島になった。
そして。
カイは気付いた。
空が少しずつ暗くなり始めていることに。
嵐ではない。
もっと嫌なものだった。




