第32話 金融街へ
ボートのエンジン音が響く。
ネオマイアミの街並みは少しずつ遠ざかっていた。
マスタングは舵を握り。
モーゼスは船首で海を眺めている。
カイは船縁にもたれた。
潮風が強い。
ロイドは双眼鏡を覗いていた。
落ち着かない様子だった。
「見えてきた」
ロイドが言う。
声が少し上ずっている。
カイは立ち上がった。
水平線の向こう。
黒い影が見えた。
最初は岩かと思った。
違う。
ビルだった。
高層ビル群。
何十本もの建物が海から突き出している。
途中まで沈んだもの。
傾いたもの。
上層階だけが残ったもの。
巨大な墓標のようだった。
「うわ……」
カイは思わず声を漏らした。
湿地帯とは違う。
ここは人間が作った街だった。
そして死んだ街だった。
「旧金融街だ」
ロイドが言う。
双眼鏡を下ろした。
「崩壊前のマイアミで一番金が集まった場所だ」
「銀行」
「投資会社」
「企業本社」
「高級マンション」
「世界中の金がここを通った」
コックローチが鼻を鳴らす。
「今は魚の住処だな」
「だいたい合ってる」
ロイドは苦笑した。
「軍警も企業も維持しようとした」
「堤防を作った」
「排水設備も動かした」
「でも無理だった」
「海面上昇は止められなかった」
モーゼスが口を開く。
「だから回収できる物だけ回収した」
「残りは放棄」
ロイドは頷く。
「その通りだ」
遠くに巨大な観覧車が見えた。
半分錆びついている。
それでもまだ立っている。
海の上に残された骨のようだった。
カイはロイドを見る。
ロイドは興奮していた。
だが同時に緊張もしていた。
右手が少し震えている。
「お前」
カイが言う。
「手震えてるぞ」
ロイドは即座に否定した。
「震えてない」
「震えてる」
「少しだ」
モーゼスが笑う。
「初めてだからな」
ロイドはため息をついた。
「軍学校の演習とは違う」
「違法だからな」
マスタングが言う。
「今なら引き返せるぞ」
ロイドは少し考える。
そして首を振った。
「嫌だ」
「死ぬかもしれんぞ」
「知ってる」
ロイドは再び金融街を見る。
「でも来たかった」
マスタングは笑った。
「物好きだな」
その時。
マスタングが封筒を取り出した。
「そういや報酬の確認だ」
全員の視線が向く。
「今回は下見だ」
「赤券五枚」
「青券一枚」
「カリブドル二十」
「おっ」
カイが反応した。
「珍しいな」
ロイドが頷く。
「港向けだな」
カイは紙幣を取り出した。
見慣れない訳ではない。
だが普段使うこともない。
「リコが前に使ってたな」
「港の屋台か何かで」
「配給券じゃ駄目だって言われてた」
「そりゃそうだ」
ロイドが言う。
「配給券はネオマイアミの金だからな」
「カリブドルは海の金だ」
「自由港同盟の共通通貨」
「ネオマイアミ」
「ハバナ」
「カルタヘナ」
「他の港湾都市でも使われてる」
モーゼスが笑った。
「海の金か」
「その説明は嫌いじゃない」
風が吹く。
コックローチの財布が少し開いた。
カイは偶然それを見る。
中にはカリブドルが何枚も入っていた。
配給券より明らかに多い。
財布はすぐに閉じられる。
カイは何も言わなかった。
ただ少しだけ意外に思った。
見た目。
話し方。
時々混じる妙なイントネーション。
コックローチはネオマイアミの連中とどこか違う。
自分より明らかに幼い。
十歳か十一歳くらいだろう。
それなのに妙に落ち着いている。
自分がその歳の頃はもっと子供だった。
コックローチは海を見ていた。
まるで海の向こうに何かを置いてきた人間みたいだった。
ボートの先に目を向ける。
旧金融街はもう目の前だった。
崩れたビル。
水没した道路。
海に沈んだ高架橋。
そして旧港湾倉庫群。
今回の目的地。
モーゼスが立ち上がる。
ライフルを確認する。
マスタングもエンジンを落とした。
「着くぞ」
誰も返事をしない。
全員が前を見ていた。
沈んだ街が静かに彼らを待っていた。




