第29話 接触者
翌朝。
HELIOS本社ビルの会議室では、いつも通り数字が並んでいた。
輸送量。
燃料備蓄。
港湾稼働率。
難民流入数。
どれも増えていた。
特に最後だけが異常だった。
「問題ありません」
役員の一人が言う。
「受け入れ能力は維持されています」
嘘だった。
エステバンは知っている。
港には毎週のように難民船が到着していた。
受け入れ施設は限界に近い。
だが報告書の数字は綺麗だった。
現実よりも。
会議終了後。
エステバンは昨夜見た資料を思い出していた。
若返る細胞。
異常な身体能力。
高額な予算。
そして最優先研究。
兵器研究だけでは説明がつかない。
何かがおかしい。
その夜。
エステバンは港近くのバーへ向かった。
酒でも飲まなければやっていられなかった。
店内は騒がしい。
港湾労働者。
船員。
観光客。
誰も未来を心配しているようには見えない。
テレビでは株価上昇のニュースが流れていた。
「HELIOSの人間か」
不意に声がした。
振り向く。
隣の席。
黒いスーツの男だった。
四十代くらい。
特徴のない顔。
だが妙に目だけが鋭い。
「そうだが」
「景気が良さそうだ」
「おかげさまで」
男は小さく笑う。
営業マンにも見える。
弁護士にも見える。
何者なのか分からない。
「港は大変だろう」
「最近はいろいろと」
「難民も増えている」
エステバンは相手を見る。
「ニュースを見れば分かる」
男は肩をすくめた。
だがエステバンは警戒を解かなかった。
「誰だ」
「情報屋だ」
「本名は」
「必要か?」
男は酒を飲む。
それ以上答える気はないらしい。
しばらく沈黙が続いた。
やがて男が口を開く。
「君は港湾管理部だったな」
エステバンの手が止まる。
「そうだ」
「奥さんは教師」
「息子は喘息持ち」
背筋が冷える。
「なぜ知っている」
「情報屋だから」
男は平然と言った。
「安心しろ」
「脅しているわけじゃない」
「ただ確認しただけだ」
エステバンは立ち去ろうか迷った。
だが席を立てなかった。
男は続ける。
「君は数字を見ている」
「一般人より少しだけ現実を知っている」
「なら見えているはずだ」
「何が」
「終わりだ」
エステバンは鼻で笑う。
「宗教か?」
「違う」
男は真顔だった。
「食料」
「エネルギー」
「水」
「気候」
「難民」
「全部限界に近い」
エステバンは黙る。
否定できなかった。
「それでも世界は続く」
「そうだろうな」
男は頷く。
「だが今の形ではない」
店内のテレビでは経済番組が流れている。
市場最高値。
記録的成長。
未来への投資。
男はそれを見ながら言った。
「そして君の会社が研究しているもの」
エステバンの表情が固まる。
「何の話だ」
「病原体」
男はあっさり言った。
「君達はそう呼んでいる」
「知らないな」
「そうか」
男は追及しなかった。
「だが仮に」
「老化を抑制できるなら」
「人間を強化できるなら」
「軍は欲しがる」
「企業も欲しがる」
「国家も欲しがる」
男はグラスを回した。
「そして誰も共有しない」
「最初に握った者が勝つ」
「何に」
「次の世界で」
その言葉だけが妙に重かった。
「近いうちに戦争が起きる」
男が言う。
「根拠は」
「準備している連中が増えすぎた」
「企業か」
「企業」
「国家か」
「国家」
男は笑う。
「もう区別はない」
エステバンは窓の外を見る。
港の灯り。
大型貨物船。
クレーン。
いつもと同じ景色だった。
だが急に別の世界に見えた。
「君は真面目な人間だ」
男が言う。
「だから忠告する」
「何だ」
「会社は君を守らない」
沈黙。
男は立ち上がる。
会計を済ませる。
そして小さな紙切れをテーブルへ置いた。
電話番号だけが書かれていた。
「もし本当に知りたくなったら連絡しろ」
「何を」
「君の会社が何を見つけたのか」
男はそう言って店を出ていった。
雨が降り始めていた。
エステバンは紙切れを見る。
捨てるべきだった。
だが捨てられなかった。
翌日。
彼は初めて研究施設へ向かうことになる。




