EP 2
商売ってのは、要するに等価交換だ。
対価を支払い、利益を得る。
そこに感情を挟む余地はない。
俺は前世の日本でも、このアナステシア世界に転生してからも、その冷徹な『算盤』だけを信じて生きてきた。
ゴルド商会でシルバーランクにのし上がり、順風満帆だったはずの俺の人生。
だが、勝ちすぎたのが裏目に出た。
「……ハッ、クソが……」
口の中に広がる鉄の味と、内臓を灼くような激痛。
泥にまみれ、俺は薄暗い森の境界で地面を這いつくばっていた。
商売敵に嵌められたのだ。
酒に遅効性の毒を盛られ、帰路の途中で雇われた野盗に襲撃された。
護衛の傭兵たちはあっさりと裏切り、俺は這々の体で逃げ出すしかなかった。
意識が朦朧とする。
指先から感覚が消えていく。
毒が全身に回り、心臓の鼓動が不規則に跳ねていた。
(ここで、終わるのか……俺の、算盤が……)
視界が黒く塗り潰されていく中、ぼんやりとした光と、近づいてくる足音が聞こえた。
誰でもいい。悪魔でもいい。
俺は震える手を伸ばし、血にまみれた唇を動かした。
「金なら……幾らでも、出す……。だから、助けろ……」
それが、冷徹な悪徳商社マンの、惨めな命乞いだった。
*
微かな薬草の香りと、温かな光で目を覚ました。
「……ここは?」
見知らぬ木造の天井。
ふかふかのベッドに寝かされていた。
全身を支配していたあの耐え難い激痛は、嘘のように引いている。
「あ、気がついた?」
鈴を転がすような、柔らかい声が降ってきた。
ゆっくりと首を巡らせると、ベッドの脇に一人の少女が座っていた。
銀色に輝く髪。
頭には長く愛らしいウサギの耳。
ラフで動きやすい現代風の服に、足元は無骨な安全靴を履いている。
「金なら、出す……」
まだ完全に覚醒していない頭で、俺は条件反射のように呟いた。
商売の基本だ。命を助けられたのなら、相応の対価を払わなければならない。
借りは作らない。それが俺のルールだ。
だが、少女はきょとんとした後、ふわりと微笑んだ。
「そんなの、いらないわ」
「……は?」
少女は俺の言葉を意に介さず、すり鉢のような器で青々とした『陽薬草』を擦り潰していた。
そして、目を閉じて深く息を吸い込む。
直後、彼女の体から淡く神々しい月の光のような闘気――『オド』が溢れ出した。
その光は薬草へと注ぎ込まれ、ただの草が、見る見るうちに黄金色に輝く霊薬へと変貌していく。
奇跡の万能薬、『月光薬』の精製だ。
「村長! いけません、それは……!」
部屋の隅から、長身の男が慌てて歩み寄ってきた。
パリッとした執事服を着こなす、鋭い眼光を持った人狼族の男。
ポポロ村の宰相であり、彼女の執事であるリバロンだ。
「それは国に納めるための薬です! それに、そんな短期間で何度も力を使えば、貴方の命が消耗してしまいます!」
「いいのよ、リバロン。この人、まだ毒が抜けきってないから」
「ですが……!」
リバロンの制止を振り切り、少女――キャルルは、出来上がったばかりの月光薬を小瓶に移し替えた。
「はい、飲んで。これで完全に良くなるから」
キャルルが俺に小瓶を差し出した瞬間だった。
「……ッ、げほっ、ごほっ!!」
キャルルが激しく咳き込み、その口から真っ赤な鮮血が飛び散った。
シーツに生々しい血の染みが広がる。
彼女は自分の口元を拭いもせず、ただひたすらに俺を心配そうに見つめていた。
「おい……ッ!」
俺は弾かれたように身を起こした。
理解できない。
なんだこいつは。
「あほか? 見ず知らずの他人に、自分の命を削ってまで……!」
商社マンとしての俺の常識が、激しく警鐘を鳴らしていた。
利益のない自己犠牲など、ただの狂気だ。
こんな一方的な『負債』を抱え込まされてたまるか。
「俺は……こんなもん飲まなくたって、平気だ。このくらいの毒、唾でもつけてれば治る!」
俺は強がって言い放ち、差し出された小瓶を突き返そうとした。
だが、キャルルは俺の胸にそっと手を当てた。
相手の心音を聞く、彼女特有の仕草だ。
「男の子が嘘をつかないの。めっだよ〜☆」
キャルルは、血に染まった唇で、悪戯っぽく微笑んだ。
「いたいのいたいの、飛んでけ〜☆」
俺は、何も言い返せなかった。
彼女の手から伝わる温もりが、冷え切っていた俺の胸の奥に、じんわりと染み込んでいく。
押し付けられるようにして飲まされた月光薬は、ひどく甘く、そして温かかった。
残っていた毒素が完全に消え去り、身体の底から活力が湧き上がってくる。
俺はベッドに背中を預け、天井を仰いだ。
(……糞が)
俺の頭の中で、これまで完璧に計算し尽くされていた算盤の玉が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。
(コイツの算盤、完全に狂ってやがる)
見返りを求めない、無償の愛。
そんなものは、現代社会にも、この異世界にも存在しないと切り捨ててきた。
だが、目の前にいるこのお人好しのウサギは、自分の命を削ってまで、赤の他人の俺を救ったのだ。
損得勘定の合わない、最悪の不良債権。
だが、俺の胸の奥底で燻っていた何かが、熱く燃え上がり始めていた。
(……合わせたく、なるじゃねぇかよ)
俺は傍らのサイドテーブルに置いてあった自分の上着を探り、いつものコーヒー飴を取り出した。
包み紙を破り、口に放り込む。
ガリッ!
奥歯で飴を噛み砕く。
甘苦い味が口に広がるのと同時に、俺の中で一つの『契約』が成立した。
この狂ったお人好しの村長は、俺が守る。
俺の、冷徹でえげつない算盤を使って、どんな理不尽からも守り抜いてやる。
*
それから数日が経ち、俺の体はすっかり元の調子を取り戻していた。
ポポロ村ののどかな風景を眺めながら、今後のシノギの算段を立てていた時のことだ。
「おい、村長を出せ!!」
村の広場から、下品な怒声が響き渡った。
見れば、ルナミス帝国の紋章を掲げた武装兵たちが、傲慢な態度の役人を先頭にして押し入ってきていた。
「なんだ、あのチンピラ共は」
俺が眉を顰めると、隣に立っていたリバロンが冷たく整った顔で答える。
「ルナミス帝国の徴税官です。最近、難癖をつけては不当な重税を課してくる輩でして……」
広場の中央では、キャルルが役人たちの前に立ちはだかっていた。
「何! 税が足りないだと! ふざけるな!」
「ごめんなさい……でも、今年の分はもう納めたはずじゃ……」
「黙れ! 俺が足りないと言ったら足りないんだ! 払えないなら村長、お前か村の娘たちを慰み者として連れて行くぞ!」
役人が下卑た笑いを浮かべ、キャルルの腕を乱暴に掴もうとした。
キャルルは抵抗せず、村人たちを庇うように身を縮める。
まただ。あいつはいつも、自分が傷つくことで丸く収めようとする。
俺は静かに息を吐き、スーツのネクタイを少しだけ緩めた。
「リバロン」
「はい」
「あの役人の『裏帳簿』、抜いてあるな?」
「無論です。彼が横領した金貨の額から、愛人の数まで、すべてこのファイルに」
リバロンが恭しく差し出した書類をひったくり、俺は広場へと歩み出た。
商社マンとしての、最高の笑顔を張り付けて。
「待てよ、そこのお役人さん」
俺の声に、役人と兵士たちが一斉に振り返る。
俺は彼らの前に立ち塞がり、怯えるキャルルを背中に庇った。
「その金の喧嘩――俺が買うぜ」
理不尽な搾取に対する、俺の反撃が始まろうとしていた。
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