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ハプロB51 鬼と狐  作者: 秋津ネオ
1/8

境界の夜

夜の湿気が、

新秋津の路地にゆっくりと降りていた。


秋津神社へ向かう細い道の途中、

ひとつだけ灯りをともす古い店がある。


木枠のガラスは曇り、

外からは中の様子がよく見えない。

だが、

耳を澄ませば、

どこか遠い水音のような気配が漂っていた。


──秋津神社の弁財天の気配。


水の女神。

境界の守り手。

夜になると、このあたり一帯に

静かな波紋のような霊気を落としていく。


店の奥で、

ひとりの老人が古い金属片を磨いていた。


六十五の手。

静かな背中。

何かを待つような、

何かを思い出そうとするような佇まい。


棚には、

色褪せたレコードの背表紙が並んでいた。


Pink Floyd──

“Wish You Were Here”。

“Animals”。

“Dark Side of the Moon”。


どれも、

時間の外側に置き去りにされた旅の音。


その横には、

止まったままの時計たち。

ベントーラ。

名も知られぬスイスの工房の遺品。

海軍時計。

軍用の鉄の塊。


どれも、

時間を失ったものばかり。


老人はふと手を止めた。


店の奥の暗がりで、

白い“揺らぎ”が生まれた。


最初は、

弁財天の気配が濃くなっただけだと思った。


だが──

その揺らぎは、

人の形を取り始めた。


影。

細い輪郭。

床に落ちる影が、

尾のように分かれた。


一本、

二本、

三本──

まだ数えられない。

ただの影の揺らぎ。


老人は静かに息を吸った。


「……来たか。」


影は声を持たない。

だが、

確かに“こちらを見ている”気配があった。


老人の手元の金属片が、

淡く光り始めた。


光が棚を照らし、

レコードの背表紙を照らし、

止まった時計を照らし、

最後に──

老人の顔を照らした。


その瞬間、

影の揺らぎが深まり、

尾が増え、

形が変わった。


弁財天の気配が、

“別の何か”へと変質した。


白い影は、

ゆっくりと尾を揺らした。


──正体はまだ見えない。

──ただ、そこに“いる”。


老人の頭の奥で

“何か”が開いた。


視界が揺れ、

店の空気が遠ざかり、

影が広がり、

光が反転し──


潮の匂いがした。


風の音。

波の音。

誰かの声。


──母さん。

──行くんだね。

──海の向こうへ。


老人は膝をついた。


胸の奥が熱くなり、

何かが溢れ出す。


白い影が近づき、

老人の肩に触れた。


その瞬間、

光が爆ぜた。


老人の視界は白に染まり、

次の瞬間──


千年前の海が広がった。


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