境界の夜
夜の湿気が、
新秋津の路地にゆっくりと降りていた。
秋津神社へ向かう細い道の途中、
ひとつだけ灯りをともす古い店がある。
木枠のガラスは曇り、
外からは中の様子がよく見えない。
だが、
耳を澄ませば、
どこか遠い水音のような気配が漂っていた。
秋津神社の弁財天の気配。
水の女神。
境界の守り手。
夜になると、このあたり一帯に
静かな波紋のような霊気を落としていく。
店の奥で、
ひとりの老人が古い金属片を磨いていた。
六十五の手。
静かな背中。
何かを待つような、
何かを思い出そうとするような佇まい。
棚には、
色褪せたレコードの背表紙が並んでいた。
Pink Floyd
“Wish You Were Here”。
“Animals”。
“Dark Side of the Moon”。
どれも、
時間の外側に置き去りにされた旅の音。
その横には、
止まったままの時計たち。
ベントーラ。
名も知られぬスイスの工房の遺品。
海軍時計。
軍用の鉄の塊。
どれも、
時間を失ったものばかり。
老人はふと手を止めた。
店の奥の暗がりで、
白い“揺らぎ”が生まれた。
最初は、
弁財天の気配が濃くなっただけだと思った。
だが、
その揺らぎは、
人の形を取り始めた。
影。
細い輪郭。
床に落ちる影が、
尾のように分かれた。
一本、
二本、
三本
まだ数えられない。
ただの影の揺らぎ。
老人は静かに息を吸った。
「 来たか。」
影は声を持たない。
だが、
確かに“こちらを見ている”気配があった。
老人の手元の金属片が、
淡く光り始めた。
光が棚を照らし、
レコードの背表紙を照らし、
止まった時計を照らし、
最後に、
老人の顔を照らした。
その瞬間、
影の揺らぎが深まり、
尾が増え、
形が変わった。
弁財天の気配が、
“別の何か”へと変質した。
白い影は、
ゆっくりと尾を揺らした。
正体はまだ見えない。
ただ、そこに“いる”。
老人の頭の奥で
“何か”が開いた。
視界が揺れ、
店の空気が遠ざかり、
影が広がり、
光が反転し
潮の匂いがした。
風の音。
波の音。
誰かの声。
母さん。
行くんだね。
海の向こうへ。
老人は膝をついた。
胸の奥が熱くなり、
何かが溢れ出す。
白い影が近づき、
老人の肩に触れた。
その瞬間、
光が爆ぜた。
老人の視界は白に染まり、
次の瞬間
千年前の海が広がった。




