クイーンリッチ
最下層は空気からして違っていた。
降りるごとに濃くなっていた湿気が、ここでは凍りついたように動かない。苔も虫の気配も無い。代わりに、人とも獣ともつかない白骨が、誰かが供えたように床のあちこちに横たわっている。自分たちの足音だけがやけに大きく反響していた。
(相手はクイーンクラスのリッチ…適性レベルは60超…。レベル差は足し算じゃない。一つ違えば景色が変わるこのゲームで、60っていうのは…もう天災と同じだ。)
(何でだ…。何でこんな初心者の潜るダンジョンに、こんなものが…。)
理屈に合わない。だが考えがまとまるより先に、骸骨の顎がカタリと動いた。
何を唱えているのかは分からない。聞き取れないほど速いのか、それとも知らない言葉なのか。ただ詠唱が終わった瞬間、部屋の空気が淀んだ。
「来ます…!」
「「「「ぐぅ…!」」」」
4人同時に膝が落ちる。体全体が何倍にも重い。見えない手で地面に縫い付けられたようで、杖を取り落とさないようにするだけで腕が震える。
「恐らく…重力操作系の魔法です…。相手の動きを大幅に制限する…高度な魔法です…。」
「指一本が…鉛みてぇだ…!」
「…………(カタカタ)」
リッチがケタケタ笑っているような動作を見せる。藻掻く獲物を上から眺めて楽しんでいるかのようだ。
「くそっ、あいつ楽しんでやがる…。」
(焦るな…。危機なんて今まで沢山あったじゃないか…。冷静に考えろ。倒せなくても離脱する方法くらい…。)
その瞬間、ふっと重力が元に戻った。
「は…?」
止めを刺すならこれ以上ない好機だったはずだ。重力で縛ったまま、好きなだけ料理できた。それを自分から手放した。理由の分からない突然の出来事に悠仁は拍子抜けしたが、この機を逃すほど皆馬鹿ではない。
「散開しろ!距離をとってそれぞれの間隔を広げろ!」
悠仁の号令に3人がバックステップで応える。
「Alice!リッチの弱点や対処法は分かるか!?」
「基本的にはスケルトンと同じです!ですが対物理も対魔法も防御力が桁外れです!火力自体が高くないとまともなダメージは与えられません!それと魔法は基本必中です!魔法に対抗する装備の無いYujiさんは、被弾したら…!」
死ぬ。言葉にされなくても分かった。
「くそっ…このパーティーに60レベル相手にまともなダメージを出せる火力なんて無いじゃないか…。」
(どうする…この間にも…!)
「……………!!!」
リッチが詠唱をすると、天井が崩れてできた瓦礫がガラガラと頭上に集まり、一塊の大岩になる。リッチが杖を振り下ろすと、その大岩がカインに向かって飛んだ。
「来るわよカイン!防御!」
「おう!」
ミーナの声に反応して盾が構えられる。何度も仲間を守ってきた、いつもの構え。だが、相手が悪すぎた。
ゴガッ!!!
「ぐぁあああああああ!!」
大岩は盾ごとカインを撥ね飛ばした。巨体が宙を舞い、背中から壁に叩きつけられる。ガゴンという嫌な音が響いた。
「カイン!大丈夫か!」
「……」
返事が無い。壁際でずるりと崩れ落ち、頭が力なく垂れている。
「…恐らくあのリッチ、元エルフです…。あの尖った耳の骨…あれはエルフ特有のものです…。魔法適性が非常に高い…。今カインさんを吹き飛ばした魔法も、お遊びのようなものである可能性が…。」
「嘘だろ…。あの防御馬鹿が一撃でダウンするレベルの魔法だぞ。それで手を抜いているって…。」
本気を出されたらどうなってしまうのか。背筋が芯から凍った。
「ほら!そこの骸骨!こっちよ!」
ミーナが弓を構えて矢を放つ。しかしその矢がローブを貫くことはなかった。布をかすかに揺らしただけで、リッチの足下に滑り落ちる。
「あのローブ何製なのよ!私の矢が通らないなんて!」
その攻撃でヘイトを稼いだのか、リッチがゆっくりとミーナの方を向く。カラカラと骨を鳴らしながらの詠唱。次の瞬間、10数本のツララがリッチの頭上に出来上がった。
「まずい!光よ 我が魔力を糧に 彼の者を守る障壁を…プロテクション!!」
Aliceが杖を振り下ろす。ミーナとツララの間に水色の半透明な壁が出来上がる。降り注ぐツララが一本、また一本と突き刺さり…最後の一本で壁が砕け散った。通り抜けたツララは当然ミーナに向かって飛んでいく。
「ふっ!!」
ミーナは身を捻ってかわそうとするが、間に合わない。右肩が深く抉られた。
「きゃああああああ!」
ぶしゅっ!と聞こえてきそうな勢いで血が噴き出す。
「ミーナ!」
肩を押さえてしばらく蹲っていたミーナは、そのまま前に倒れ込んだ。
残ったのは悠仁と、肩で息をするAliceだけだった。
「……………!」
リッチが両の眼窩にぼうっと暗い光を灯す。これまでで一番長い詠唱だった。低く、長く、聞き取れない言葉が続く。
唱え終えた瞬間、部屋の隅という隅から、墨を流したような闇が染み出してきた。
それは生き物のように床を這い、4人を内側へ内側へと追い詰めていく。闇に触れた白骨が、じゅうっと音を立てて塵に変わった。あれに飲まれればただでは済まない。
「あの闇…侵蝕系の魔法です!触れたら駄目です!倒れている2人を中央へ…!」
「分かってる!」
悠仁は半ば這うようにして意識の無いカインの腕を掴み、引きずる。重い。こんな時でもフルプレートを着込んでいるせいで死ぬほど重い。ミーナの方へも手を伸ばすが、闇は待ってくれない。じわじわと安全な床が狭まっていく。
「Alice!足場を頼む!」
「やってます…!」
Aliceが足下に円い障壁を張る。闇がそこで弾かれる。だが長くは保たない。障壁の縁がジジ…と削れ、ひび割れていく。崩れる、その寸前。
「…今っ!」
Aliceがぴたりと障壁を張り直した。崩壊と再展開の継ぎ目が無い。まるで腰に提げた懐中時計の針を体で感じ取っているかのように、Aliceは闇が障壁を破るコンマ数秒前を正確に捉え続けている。
だが、それは魔力を際限なく喰う。
「はぁ…っ、はぁ…っ。」
張り直すたびにAliceの顔から血の気が引いていく。悠仁の手元のマナポーションも、もう数えるほどしか残っていない。
(ジリ貧だ…。このままじゃAliceの魔力が先に尽きる。そうなったら全員あの闇に飲まれて終わりだ…。)
最善手が必ずしも最善の結果を生み出すとは限らない。しかし下手な手を打っても状況は悪化する一方だ。
(何か…何かあるはずだ…。)
そう思考を巡らせていると、ログインする前に受付嬢と話していたことが思い浮かんだ。
(…魔法を強化するかもしれない魔法。どういった効果かはっきり分からない上に、どれだけ魔力を消費するのかも分からない。場合によっては命の危険もあるだろう。だが…もし効果があるなら試さない手はない。どちらにせよ、対抗できなかったら全員ここで死ぬんだ…。)
悠仁は決死の覚悟でその名を思い浮かべる。
「魔法を…強化…。」
呼び水のように、頭の奥から詠唱文が滲み出てくる。だがそれは、今まで覚えたどの魔法とも違っていた。炎よ、水よ、と精霊に呼びかけるあの感触が無い。代わりに…何かが舌なめずりをしながらこちらを覗き込んでいる。読めない文字の羅列。意味も知らない。なのに口の端をこじ開けて、勝手に零れ出ようとする。
「あぁ…馨しい恐怖の香――」
口にした瞬間、ぞわりと背筋が粟立った。声は自分のものだ。なのにその一語を言った時、確かに…旨い、と感じた。
(うそだろ…。)
「怯えに震える命の甘さよ 愛しい名を呼ぶ声さえ啜り――」
止まらない。一節吐き出すごとに舌の上に味が広がっていく。蜜のような、肉のような。床に倒れた仲間の怯えさえ甘露に思えてくる自分がいて、悠仁は本気で吐き気を催した。痛みじゃない。気持ちがいい。それがたまらなく怖い。
「築き上げた日々を一匙ずつ舌に乗せ 骨の髄まで饕餮し――」
歯の根が合わない。全身が小刻みに震えている。寒さでも痛みでもない。誰かが自分の口を借りて、嬉々として獲物を味わっている。その誰かの愉悦が、神経を逆撫でしながら背骨を這い上がってくる。悠仁は最後の一節を、まるで他人の声のように聞いた。
「あぁ…馥郁たる終焉を――デリヴォラ!!」
ガッ、と心臓が大きく一つ跳ねた。視界が真っ赤に染まる。
「ぐ…ぁ…!」
「Yujiさん!」
Aliceの叫び声が聞こえる。だが赤く滲んだ視界の奥で、力だけが膨れ上がっていた。喰らった"何か"がそっくりそのまま魔力に変わっている。指先の一本一本にまで、見たことも無い濃度の魔力が脈打っていた。ただ、その魔力は温かくない。舌の奥に残る甘さと同じ、ねっとりとした嫌な熱を帯びている。
(こんなもの使いたくない…。だが、今は!)
「水よ 地より敵を串刺しにせよ…アイシクルパイル!!」
リッチの足下から、最上層でスケルトンナイトを倒した時とは比べ物にならない、見上げるほどの氷の杭が突き上がった。リッチは危険を感じて回避行動を取るが、間に合わない。氷の杭は右腕を刺し貫き、杖を握っていた腕ごと肩の付け根から弾け飛ばした。
「…!!!」
弾け飛んだ腕に恐怖を感じたのか、それとも痛みなのかは定かではないが、リッチがガタガタと震える。主を失った杖が宙を舞い、悠仁の足下に転がってきた。
龍血樹の枝に魔法石をはめ込んだような杖。拾い上げた瞬間、悠仁の周りで風が巻き起こり髪が煽られた。
「なんだ…この杖は…。」
握っただけで、自分の体を流れる魔力の道筋が澄み渡って見える。
そして悠仁は気付いた。杖を奪われたリッチが、その顎をカタカタと動かしている。嘲りとは違う。もっと必死で、もっと切実な。まるでこちらに何かを訴えかけてくるような。
その骨だけの姿を見て…舌の奥がひとりでに疼いた。
(…喰え)
ぞっとして悠仁は奥歯を噛み締めた。今のは自分の考えじゃない。腹の底に居座った"何か"が、まだ、もっと、と舌なめずりをしている。
(黙ってろ…!)
「Alice。」
「はい。」
「反撃するぞ。回復は頼んだ。」
「!………分かりました。」
敵から奪った武器を手に、悠仁は反撃の狼煙を上げ始めた。




