閉館
――カンタヴィア 王宮 枢密院議場
採決は、行われなかった。
行う必要が、なくなったからだ。バルドの暗唱が終わった議場で、最年長の重臣が震える声で「……異議は、ないものと存ずる」と言い、誰も、何も言わなかった。この国の沈黙が、この日初めて、賛成の意味で使われた。
改葬。慰霊。第7条の撤廃。三件、成立。
「——ようやった、爺様!」
議場を出た廊下で、カインが真っ先に駆け寄った。バルドは杖にもたれて、ほっほ、といつもの笑いを漏らした。
「なぁに。年寄りの長話に、皆が付き合うてくれただけのことよ。……時にお若いの。」
「ん?」
「わしの暗唱、何か所か、つっかえたのが分かったかの。」
「……いや?完璧だったろ。」
「三か所での。」
老人は少し自慢げに、それから少し寂しげに言った。
「メリッサの俸給の額と、移送部隊の副官の名と……ジョコンドの、家族の数。出てくるまでに、それぞれ二呼吸かかった。……全盛期なら、半呼吸じゃ。」
「そんなもん、誤差だ誤差。」
「誤差が出るようになったら、書庫は店じまいよ。」
バルドは笑って、廊下の高窓を見上げた。白い光が、老人の白い髪に落ちた。
「じゃが、間に合うた。閉館前の、最後の貸し出しに、な。……のう、お若いの。わしは今日、20年ぶりに、書記官の仕事をしたぞ。国で起きたことを、あったとおりに、残す仕事をな。……よい日じゃ。実に、よい日じゃ。」
その夜、王宮は、バルドのために小さな宿舎を用意した。改葬の実務にあたって、彼の記憶が引き続き必要だったからだ。バルドは夕餉に葡萄酒を一杯だけ飲み、「明日は谷の墓の並び順を教えにゃならん、若い書記を三人よこせ」と注文をつけ、機嫌よく床に就いた。
廊下で別れ際、バルドは悠仁達一人一人の顔を、名簿でも検分するように順に見た。それから何も言わずに、ひらひらと手を振った。年寄りの就寝の合図にしては、少し長く手を振った。誰もそれを、特別なこととは思わなかった。
そして、翌朝。
老人は、目を覚まさなかった。
苦しんだ跡は、なかった。眠ったまま、静かに、逝っていた。枕元の小卓には、宿舎に備え付けの紙とペンで、短い書き置きがあった。20年ぶりに書かれた、バルドの字だった。
『三十一名の名は、若い書記三名に、昨夜のうちに口移しで預けた。復唱、三回、誤りなし。これにてわしの書庫は、全蔵書の写しを終える。
安心して、閉館する。
——元・王宮書記官バルド。今日かぎり、ただの、字の好きな爺』
最後の一行だけ、インクがひとところ、丸く滲んでいた。若い書記たちは後々まで、あの滲みが葡萄酒の雫だったのか、それとも別のものだったのかを、論じ合ったという。




