朝の村
――ジュネプロ村 朝
その朝の村を、悠仁は多分、一生忘れない。
歌が終わったことは、誰が報せるでもなく、村中に伝わった。この国の人間は、耳がいい。鎧戸が、一枚、また一枚と開いた。寝付いていた年寄りの一人が、粥を平らげたと聞こえた。マナ枯れの原因は、消えたのだ。
朝の空気は、昨日までと同じはずだった。それなのに、村の音が違った。井戸の滑車が鳴り、鍬が石に当たり、どこかで薪が割れる。音の数は増えていないのに、音がのびのびと鳴っていた。息を潜めていた暮らしが息を潜めるのをやめただけで、村は別の場所みたいに聞こえた。
そして、村人たちは、古木の斜面に集まり始めた。
誰も、何も言わなかった。ただ、一人、また一人と、斜面に上がり、古木の根元に、野の花や、パンのかけらや、水の椀を置いていった。20年間「聞こえないふり」をしてきた人々の、それが精一杯の、初めての返事だった。
花の置き方にも、この国の型があった。誰も膝をつかず、誰も声を出さず、置いたら一度だけ木を見上げて、坂を下りていく。列は自然に一列になり、追い越す者はいなかった。弔いの作法など20年、公には持てなかったはずの人々が、体のどこかにちゃんと仕舞っていたのだ。
「……なぁ、Yujiさんよ。」
メルロが、隣に並んで、ぼそりと言った。徹夜の測量屋の目は真っ赤だったが、その手は図板をしっかり抱えていた。
「昨日の夜のあれこれ、俺は測量屋だから、心ってもんはよく分からんがな。……一つだけ、注文がある。」
「なんですか。」
「あの谷な。……名前を、つけてやってくれ。」
メルロは、図板の上の、31の点の落ちた図面を叩いた。
「地図ってのは、地形と名前でできてる。名前のない場所は、地図に載っても、まだ半分消えたままだ。……俺は測って、図は引いた。だが名付けは、測量屋の仕事じゃねぇ。あんたらか、あの検閲卿か、この国の誰かの仕事だ。」
「……伝えます。必ず。」
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出立の前に、悠仁は姉弟に呼び止められた。
ノーラが、深々と頭を下げた。11歳の、精一杯の大人の礼だった。
「弟が……ティノが、検閲局に連れて行かれずに済んだのは、皆さんのおかげです。ありがとう、ございました。」
作戦の変更に伴い、「唱和事例の児童の保護」の命令は、検閲卿の職権で撤回されていた。撤回の理由書には『唱和対象の消滅により、感染源は存在しない』と書かれたそうだ。あの人は最後まで、公文書の言葉で、公文書のできる精一杯を書く人だった。
「おじさん、あのね。」
ティノが、悠仁の袖を引いた。
「リリカね、いなくなってないよ。」
「……ん?」
「だってぼく、おぼえてるもん。」
7歳は、こともなげに言った。
「おぼえてるあいだは、いなくなってないんだよ。しってた?」
悠仁は、しばらく言葉が出なかった。それから、ティノの頭に手を置いて、くしゃくしゃと撫でた。
「……あぁ。知ってた。……いや、今、教わった。」
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「これから、どうされますか。」
ロヴェルトが、整列した部下の前で、悠仁に問うた。
「王都へ戻ります。……謁見が、まだですから。」
「では、我々が先導します。討伐完了の報告に戻る隊と、道は同じだ。」
若い騎士は、そこで少しだけ、公式でない顔になった。
「……冒険者殿。いつか、と言いましたね。あなた方の耳にあれがどう聞こえるのか、いつか聞かせてほしいと。」
「言いましたね。」
「もう、結構です。」
ロヴェルトは、古木を振り仰いだ。花と、パンと、水の椀に囲まれた、朝の光の中の古木を。
「……この耳で、聞きましたから。」




