三十一番目
――ジュネプロ村 古木の斜面 夜明け前
『さぁ……これで、ぜんぶ。』
夜が薄く延び始めた頃、歌は、最後の一節の前で止まった。
『あとは、31ばんめの名前だけ。』
靄は、月の沈んだ西の空の下で、待っていた。31番目——リリカ自身の名。だが、その一節だけは、リリカは歌い出さなかった。歌えないのではない。待っているのだ、と悠仁は気づいた。自分の名前は、自分で歌うものではないから。
誰かに、呼ばれるものだから。
最初に立ち上がったのは、バルドだった。
老書記官は床几から骨を軋ませて立ち、古木の下へ進み出て、20年ぶんの掠れ声で言った。
「宮廷詩人団、末席。——リリカ。」
「歌の覚えの速さ、団の随一。木苺の菓子に目がなく、高い階段が苦手で、師の目を盗んでは厨房に入り浸り……。」
老人の声が、揺れた。
「……わしの、無聊の茶飲み相手を、務めてくれた娘。」
『……バルドのおじさま。』
「覚えて、おったとも。」
老人は、洟を啜って、居住まいを正した。
「31人。全員の名を、わしはこの20年、一夜も欠かさず諳んじてきた。……じゃが、名簿の順で最後のお前さんの名だけは、いつも、言うのが辛うてな。……今夜からは、良い名になる。ようやく、良い名に戻る。」
次に、フルールが進み出た。
「……リリカさん。私、あなたの歌を、最初から知ってました。理由は、分かりません。多分この先も、分からないままかもしれません。でも。」
フルールは、両手を胸に当てた。
「あなたの歌は、私の中に残ります。全部。一節も欠けずに。……私、忘れませんから。忘れられない体質なんです、多分。だから——安心して、終わってください。」
ミーナが。カインが。ステラが。アリスが。順に、名を呼んだ。
呼び方は、それぞれだった。ミーナは口の中で二度、カインは一度だけ深く、ステラは大切な本の題を口にするように、アリスは祈りの結びの形で。同じ名前が、四つの声で、四つの色になった。
そして最後に、小さな足音が、斜面を駆け上がってきた。
「——こえのひとーっ!」
ティノだった。夜通しの騒ぎに、家を抜け出してきたのだろう。追いかけてきたノーラが捕まえるより早く、7歳は縄をくぐり、靄の前まで走って息を切らして叫んだ。
「あのねっ、あのね、ぼく、なまえきいたよ!リリカでしょ!ぼく、おぼえたからね!ぜったい、わすれないからねっ!おとなになっても、おじいちゃんになっても、ぜーったい、わすれないからねっ!」
『……ふ、ふふ。』
靄が、震えた。笑って、泣いていた。
『……うん。……うん。ありがとう。……ありがとう、ちいさなうたい手さん。』
リリカは、最後にドンナルーチェを見た。検閲卿は顔を覆っていた手を下ろし、赤くなった目のまま背筋を伸ばして、言った。
「……宮廷詩人、リリカ。」
声は、公文書の声ではなかった。
「20年前、貴女がたの楽器を焼却する任にあった女官として……その職務の、不履行を、ここに報告します。楽器は、焼いていません。谷に、あります。全部。……いつか必ず、日の当たる場所に、戻します。私の職を賭して。」
『……ん。』
リリカは、少女のように、頷いた。
『じゃあ——うたうわね。さいごの一節。』
東の空が、白み始めていた。
『三十一番目。リリカ。木苺と、たかいところが苦手な、いちばん年下の詩人。……ながいこと、るすにしました。』
『いま、みんなのところへ、帰ります。』
最後の一節は、歌というより、朝の光そのものだった。声はひとすじずつ細くなり、細くなった分だけ透きとおり、透きとおった果てに——夜明けの最初の風と、区別がつかなくなった。
靄は、もう、なかった。
古木の枝の間から朝陽が斜面に差し、31本の光の筋が、谷の方角へまっすぐに伸びていた。……ように、見えた。それは多分、ただの朝靄と木漏れ日だった。多分。
歌は、終わった。
20年間、この国の夜を渡り続けた歌は、聞き終えられて、終わった。
誰かの嗚咽が聞こえた。兵の列からだった。今度は、誰もそれを隠さなかった。ロヴェルトが、静かに、しかしはっきりと、宣言した。
「——対象の消滅を、確認。……全隊、黙祷。」
30人の兵が、音撃筒の砲列の前で、一斉に頭を垂れた。
それが、コレスタニア王国軍がジュネプロ村で実施した「討伐作戦」の、公式な結末だった。




