第三幕①
――ジュネプロ村 古木の斜面 深夜
第三幕の歌は、名前から始まった。
『メリッサ。竪琴の名手。笑うと右の頬にえくぼができて、お酒がつよくて、はやおきが、にがてだったひと。』
一節、歌う。竪琴の旋律を、声だけで。
『トルドー。笛ふき。けちんぼで、でもわたしが熱を出した夜、ひとばんじゅう、まくらもとで低い笛を吹いてくれたひと。』
一節、歌う。低い笛の音を、声だけで。
『ジョコンド。字がきたなくて、だれよりもうつくしい恋の詩を書いたひと。』
一節。恋の詩の断片。
それは、31人の名前の歌だった。名前と、人となりと、その人の歌を一節ずつ。バルドは荷馬車から下ろした床几に腰掛け、目を閉じて、一つ一つの名前に頷いていた。時折、皺だらけの唇が動いた。歌に合わせてではない。名前を、一緒に、諳んじているのだった。20年、毎晩そうしてきた通りに。ただ今夜だけは、独りではなかった。
聞き手は、最初の夜より増えていた。兵たちはもう背を向けておらず、思い思いの場所で膝を抱えていた。黒地図の面々は器具を仕舞ったまま、職人の顔で耳を澄ませている。誰の取り決めでもなく、斜面は今夜、ひとつの聴衆になっていた。
アリスの杖は、絶え間なく淡い光を注ぎ続けていた。ステラは帳面を開いていた——が、途中で、ペンを置いた。書き残すために来たはずの手が、動かなくなっていた。
「……ステラさん?」
「……これは。」
ステラは、掠れた声で言った。
「……これは、書いたら、駄目な気がする。書くと……小さくなる。」
代わりにステラは、ただ、聞いた。世界でいちばん本を愛する少女が、記録を放棄して、ただ耳だけになっていた。
ドンナルーチェは、古木の根元に、身じろぎもせずに座っていた。
名前が進むたび、検閲卿の記憶と符合するのだろう。14歳の女官見習いが知っていた顔たち。菓子をくれた人、くれなかった人、髪を編んでくれた人。その一人一人の名前が、20年ぶりに、夜気の中で鳴っていく。ドンナルーチェは泣かなかった。ただ、名前が一つ進むごとに、膝の上で重ねた手の指が一本ずつ白くなっていった。
悠仁は、名簿の写しを開かなかった。開かなくても分かった。歌は、名簿の順の通りに進んでいた。事務の紙の順番が、20年経って、鎮魂の順番になっていた。
31番目の名前の、手前で。
歌が、ふ、と途切れた。
『……さいごの、ひとつまえに。』
リリカの声が、囁きに変わった。
『31ばんめの名前のまえに——うたっておかないと、いけない歌があるの。』
『あの夜、とちゅうで切られた歌。わたしたちが、うたいかけていた歌。……この歌をうたったから、わたしたちは消された。この歌は20年間、この世でいちばんうたってはいけない歌だった。』
靄が、ドンナルーチェの方を、向いた。
『ルーチェ。検閲卿さま。……うたっても、いい?』
問われた検閲卿は、長い、長い沈黙のあと。
生涯でいちばん静かな声で、言った。
「……検閲局は、聖堂の掲示と、死者の遺言には、関与しません。」
それが、彼女の職業人生における、最初で最後の拡大解釈だった。




