堤防と川
――ジュネプロ村 古木の斜面
『わたしはね、ルーチェ。あなたをせめに来たんじゃないの。せめる相手は、もう、この世にいないもの。』
リリカの声は、どこまでも柔らかかった。
『あなたが竪琴を埋めてくれたこと、知ってるわ。谷まで、ついて行ったもの。声だけになって、ふわふわと。……小さなあなたが、泣きながら土をかけて、「ごめんなさい」って、なんどもなんども。……わたし、あの夜からずっと、あなたにお礼が言いたかったのよ。』
「やめて、いただきたい。」
ドンナルーチェの声が、初めて、掠れた。
「礼を言われる資格など、私には。」
『あるわよ。名前を埋めてくれたひとが、いなかったら。』
靄は、月光の中で、囁いた。
『わたしたち、ほんとうに、きえていたもの。』
沈黙が、斜面を覆った。砲列の兵たちは、もう誰も砲を見ていなかった。全員が、検閲卿と靄との間の、20年ぶんの会話を見ていた。
夜風の向きで、杜松の匂いが強くなり、また薄くなった。悠仁はここまで口を挟まなかった。ここから先も、部外者の出る幕ではないのかもしれない。それでも、この場の誰も言えないことが一つだけ残っていて、それを言うのが旅の者の役目になる瞬間が、どの国にもある。
「……検閲卿。」
悠仁は、一歩、前に出た。今しかない、と思った。
「あんたの堤防の話は、分かった。茶化す気はない。20年、粛清が起きてないのは事実だ。あんたが命懸けで積んだ堤防だ。……ただ、一つだけ、教えてほしい。」
「……何です。」
「その堤防は、いつまで保つんですか。」
「……。」
「水を止める堤防は、水が引けばいつか要らなくなる。けど、あんたの堤防が堰き止めてるのは水じゃない。人間の声だ。声は、引かない。溜まる一方だ。現にもう、漏れてる。——毎晩、都まで。」
悠仁は、夜空を指した。歌の通り道を。
「十万人が、毎晩あの歌を聞いて、毎晩聞こえないふりをしてる。子どもは口ずさんだだけで『保護』される。あんたの堤防の内側で、水位はもう、堤の高さを越えかけてる。……次に決壊した時、流されるのは誰だ?また、31人か?それとも、もっとか?」
「だから、私は。」
「あぁ、だからあんたは、今夜あの人を消しに来た。水位を下げるために。……なぁ検閲卿。それ、20年前に権力がやったことと、どこが違うんだ。」
ドンナルーチェの息が、止まった。
「歌が怖い。歌は人を動かす。だから、歌ってる者を消す。——理屈の骨格が、同じだ。あんたは堤防を積んでるつもりで、あの夜の設計図を、なぞってる。」
「……では、どうしろと言うのです。」
検閲卿の声は、ほとんど、悲鳴の一歩手前だった。20年間、誰にも問えなかった問いなのだろう。
「開けろと?水門を開けて、歌わせて、風刺させて、群衆を熱くさせて——それであの夜が二度と来ない保証を、貴方はできるのですか!」
「できない。」
悠仁は、即答した。
「保証なんて、誰にもできない。……ただ、順番なら提案できる。」
「順番……?」
「今夜、まず、この歌を最後まで聞く。あんたも一緒にだ。31人の最後の一人の、最後の歌を。堤防の内側に20年溜まってた水の、いちばん古い一滴を、ちゃんと流す。……全部はそこからだ。」
悠仁は、手を差し出す代わりに、古木の根元を、指し示した。
「検閲卿ドンナルーチェ。あんたを、証人として招待する。……あんたには多分、世界の誰より、この歌を最後まで聞く義理がある。」
風が、変わった。
歌の前触れの、南からの夜風。杜松の葉が、海のように鳴った。ドンナルーチェは、長いこと、動かなかった。砲列と、古木と、靄と、そして自分の20年の間で。
誰も急かさなかった。兵たちは待ち、ロヴェルトは待ち、リリカの靄さえ、風の中で静かに待っていた。20年ぶんの逡巡に数分の猶予を惜しむ者は、この斜面には一人もいなかった。
やがて——検閲卿は、ロヴェルトに向かって、静かに言った。
「……騎士ロヴェルト。」
「はっ。」
「全隊に伝達。本日の作戦を、次の通り変更します。」
一拍。
「『観測を継続し——対象の消滅を、確認せよ』。」
それは、悠仁の詭弁を、一字一句、公文書の言葉に直したものだった。ロヴェルトは弾かれたように敬礼し、震える声で復唱した。兵たちの間から、ため息とも嗚咽ともつかないものが、漏れた。
ドンナルーチェは、砲列に背を向けて、古木の根元へ歩き出した。一歩ごとに、検閲卿の鎧が剥がれていくようだった。靄の前に立った時、そこにいたのは、歳より老いた顔をした三十半ばの、ただのルーチェだった。
その背中に、兵の誰かが敬礼をした。号令のない敬礼だった。一人が始めると、それは砲列の端まで、静かに伝染していった。
『……きいてくれる?』
「……はい。」
『ふふ。じゃあ——』
靄が、月光を集めて、これまでで一番はっきりと、人の形を結んだ。
『第三幕。さいごの歌を、はじめます。』




