あの夜の女官
――ジュネプロ村 古木の斜面
「……リリカ。」
ドンナルーチェは、その三文字を、まるで舌の上の棘のように発音した。
「その名を、誰から。」
「本人から。」
『……ひさしぶりね。』
靄が、揺れた。
『おおきくなったわね——ルーチェ。』
夜が、凍った。
兵たちが、ざわ、と動揺する。ロヴェルトが息を呑む。そして検閲卿ドンナルーチェは——動かなかった。動かないことに、全身の力を使っているのが、傍からでも分かった。
「……人違いです。」
「『ルーチェ』。」
バルドの声だった。荷馬車から降りた老書記官が、杖代わりの棒を突きながら、ゆっくりと砲列の前に進み出た。
「詩人棟の走り使いをしとった、女官見習いの小娘。歳は、当時14か15。詩人どもに菓子をねだっては、メリッサに髪を編んでもろうとった。……わしは書記官じゃ、ドンナルーチェ卿。宮廷におった人間の顔と名は、忘れんのじゃよ。今のお前さんの顔から20年引けば、あの小娘の顔になる。」
「……バルド書記官。」
ドンナルーチェは、目を閉じた。
「あなたは『療養中』のはずですが。」
「療養は済んだ。20年での。」
「……そう。」
検閲卿は、目を開けた。無表情は、修復されていた。だが、さっきまでのそれとは、何かが決定的に違っていた。割れた皿を継ぎ直したような無表情だった。
「……えぇ。そうです。私は、あの夜、詩人棟にいた。」
告白は、静かに始まった。誰に向けてでもなく、夜そのものに向けて。
「女官見習いでした。あの夜、私に下った命令は、『詩人棟の物品を運び出し、焼却せよ』。……14歳の小娘に、です。私は、言われた通りに運びました。竪琴を。笛を。詩稿の束を。……メリッサ様の竪琴もです。私の髪を編んでくれた手が弾いていた竪琴を、私が、火にくべる係でした。」
『……ルーチェ。』
「ですが、焼けなかった。」
ドンナルーチェの声は、抑揚を失っていった。抑揚を失うことでしか、続けられないのだろう。
「楽器と、名簿だけ、荷車の底に隠して……夜のうちに、谷へ運んで、埋めました。それが見つかれば、私も消される。分かっていて、やった。あれが、私の人生で最後の、『静かでないこと』です。」
誰も動かなかった。兵たちに、話の背景を知る者はいないはずだった。それでも全員が、動けばこの告白が壊れることを知っている顔で、夜の底に立ち尽くしていた。ロヴェルトだけが一度、目を伏せた。命令と良心の間に立つ者は、20年先の自分の姿を、いま見せられている。
「……なら、あんたは——」
「翌朝から、私は誰よりも静かに生きました。」
検閲卿は、悠仁の言葉を、静かに遮った。
「誰よりも従順に。誰よりも正確に。言葉を選び、声を殺し、階段を上りました。検閲局に入ったのは、憎かったからではありません。——あそこが、一番よく見える場所だったからです。」
「見える……何がですか。」
「『次』の兆しが、です。」
ドンナルーチェは、初めて、声に力を込めた。
「貴方がたは知らない。あの夜がどうやって始まったか。……布告からではありません。歌からです。継承に不満を持つ者たちが、酒場で、辻で、風刺の歌を歌い始めた。歌は速い。歌は燃え広がる。歌は、文字の読めない者まで動かす。上は怯え、怯えた権力は——ああいうことを、するのです。31人は、歌が殺したのです。歌があの人たちを、目立たせたから。」
「……それは違う。殺したのは——」
「えぇ、殺したのは権力です。分かっています。」
即答だった。20年、毎晩考え続けた者の即答だった。
「ですが冒険者Yuji、権力は消せません。権力はいつの時代も、怯えれば殺すのです。ならば消せるのは、どちらか。……権力の怯えを『招くもの』の方です。私は静謐法の番人になりました。歌を消し、風刺を消し、群衆の熱を消し——権力が怯えずに済む国を、作り続けてきました。この20年、この国で、粛清は一度も起きていない。一度もです。」
検閲卿は、まっすぐに悠仁を見た。疲れた目の底に、初めてその正体が見えた。あれは20年物の、恐怖だった。
「この静けさは、檻ではありません。……堤防なのです。私は二度と、あの夜を起こさせない。」
『——ルーチェ。』
リリカの声が、静かに、割って入った。
『あなた、20年、いちどでも、ぐっすり眠れた夜は、あった?』
検閲卿の完璧な背筋が、その一言で、ほんのわずかに、揺れた。




