繰り上げの夜
――ジュネプロ村 夜明け前
風が、変わった。
歌が、始まった。いつもの通りに。20年間そうしてきた通りに。夜の谷から古木へ、古木から村へ、細く、澄んで、悲しく。
「——全隊、配置!」
だが今夜は、それを迎えるのが、砲列だった。
ロヴェルトの号令で、兵たちが音撃筒に取り付く。6門の砲口が、月光の溜まる古木の梢へ向けられていく。その顔はどれも青ざめて、こわばって、何人かは唇を噛んでいた。
砲列の後ろでは、耳栓の蝋の皿が回されていた。だが今夜は、手に取る者がほとんどいなかった。撃つ前の最後の歌を素の耳で聞いておくと決めた者たちの、それが小さな抗命だった。
「隊長!」
縄の内側から、カインが駆け寄った。フルールが古木の根元で、両腕を広げて立っている。撤去を命じられた縄の、最後の一本を背にして。
「作戦は明日のはずだ!なんで今夜になった!」
「検閲局の命令だ。伝令が来た。……対象の活性化と、協力者の接触行為の確認。だそうだ。」
ロヴェルトの声は、平坦だった。感情を殺した人間の平坦さだった。
「冒険者殿。あなた方の仲間を、砲線から下がらせてくれ。」
「断る。」
「……カイン殿。」
「断るっつってんだ。」
カインは、大剣を——抜かなかった。抜かずに、砲列と古木の間に、ただ、立った。
「なぁ隊長さんよ。あんた、あの歌を聞いて泣いた兵隊たちの隊長なんだろ。……あんたは、聞かなかったのか。」
「……。」
「あの歌がよ。ひと月、毎晩聞いてきたんだろ。あれが、あんたらの婆さんの子守唄と同じもんだって、ほんとは全員、分かってんだろ。」
「——分かっている!」
初めて、ロヴェルトの声が割れた。
「分かっている……分かっているとも。だが私は騎士だ。命令は命令だ。ここで従わなければ、私は罷免され、次に来る隊長は、何も聞かなかった顔で撃つ。それだけのことだ。私が拒んでも、あの筒は今夜、火を噴く。……ならばせめて、」
若い騎士は、絞り出した。
「せめて、私の号令で撃たせろ。私が、覚えておく側に立つ。……それが、私にできる全部だ。」
歌は、続いていた。何も知らぬげに。いや——多分、全部知っていて。
『……いいのよ。』
ふいに、歌が途切れて、あの声がした。古木の根元、フルールのすぐ傍で、靄がゆらりと形を結んだ。
『いいの。もう、いいの。……ふたりも、聞いてくれるひとがいたもの。ちいさな子と、旅のひとたち。20年うたって、ふたり。じゅうぶん、じゅうぶん……。』
「良くないです!」
フルールが、叫んだ。この静かな国のど真ん中で、腹の底から。
「充分なんかじゃない!あなたの歌は、まだ終わってない!最後まで歌ってないのに、聞き終わってないのに、勝手に……勝手に、充分だなんて言わないでください!」
『……ふふ。おこられちゃった。』
靄が、困ったように、笑った。
笑いの震えが、夜気に広がって消えた。フルールは両腕を広げたまま泣いていて、その泣き顔のまま一歩も動かなかった。守っているのか、すがっているのか、本人にも分かっていないのだろう。ただ、記憶のない少女が、記憶だけの人を背にして立っていた。
その時——街道の方から、蹄の音が来た。
三騎と、一台。夜を駆け通した馬たちが、白い息を噴きながら村に躍り込んでくる。先頭の男は鞍から転げるように降りて、砲列と古木の間へまっすぐに走った。
「——待ったァッ!!」
静謐の国の夜に、悠仁の声が、割れ鐘のように響き渡った。




