帰路、そして早馬
――スクリヴァーナ 灰の図書館分館 同夜
「——見つけたか。」
分館の奥の間で、バルドは名簿を受け取ると、老眼の細い目を紙面すれすれまで近づけて、一頁ずつめくった。
指が、時折、止まった。名前の上で。
「……メリッサ。竪琴の。わしに酒の飲み方を教えた悪い女じゃ。……トルドー。笛の。ケチでな、菓子を一度もくれんかった。……ジョコンド。……ああ、ジョコンド。お前の悪筆は名簿でも直っとらんかったか……。」
名簿に並ぶ事務的な楷書の一つ一つが、老人の声を通ると、人に戻っていった。酒飲みに。ケチに。悪筆に。31の名前が、31人の、生きていた誰かに。
アリスは途中から、堪えるのをやめて、静かに泣いていた。
悠仁は、読み上げの声を聞きながら、奇妙な感覚に襲われていた。この部屋で今、31人は少しだけ生き返っている。名前を覚えている者が呼び、名前の持ち主の癖を語る。それだけのことで、20年消されていた人たちの輪郭が、燭台の光の中に順に立ち上がってくる。覚えている者がいる限り、消し切ることはできないのだ。国家事業ですら。
「……ふむ。全員おる。わしの記憶と、一字も違わん。」
バルドは名簿を閉じ、しばらく、その表紙に手を置いていた。
「……これで、わしの頭の中身は、耄碌爺の世迷い言ではのうなった。物証と、記憶と、そして歌。三本の脚が揃えば、卓は立つ。王の前でもな。」
「バルドさん。明日の朝一番で、村へ発ちます。……本当に、来てくれるんですね。あなたにとっては、危ない橋だ。」
「ほっほ。」
老人は、膝の毛布を払って立ち上がった。思ったより、しゃんと立った。
「70過ぎの年寄りの危ない橋なぞ、渡り賃が安うてよかろう。……それに、言うたはずじゃ。わしはあの子の歌に、名前を返しに行くんじゃ。閉館前の、最後の貸し出しよ。」
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――同夜 スクリヴァーナ 北門前
出立は明朝一番、と決めて散会した——はずだった。
夜半、宿の扉が叩かれた。北門に、検閲局の早馬が来ている。冒険者Yuji殿を呼べ、と。
嫌な予感に急かされるまま、俺達は取るものも取りあえず荷をまとめた。宿の精算はステラが済ませ、替え馬はメルロが手配のついでに押さえてくれていた。荷は最小限に組み直し、名簿だけは油布に三重に包んで、悠仁が自分の胸元に入れた。濡らしていいものと悪いものの区別が、いまの荷物の全部だった。
北門の前で、それは待っていた。
早馬だった。夜駆けの、検閲局の早馬。だがそれは悠仁達の前を素通りし——しなかった。乗り手は門前で馬を止め、鐙の上から、悠仁を見下ろした。
「冒険者Yuji殿とお見受けする。」
「……そうですが。」
「検閲卿より、口頭伝達。『貴殿らの旅程に、変更の必要が生じた』。」
乗り手は、抑揚のない声で、続けた。
「『ジュネプロ村における作戦は、明後日の夜から——明晩に、繰り上げられた』。」
血の気が、引いた。
「『理由は、観測対象の活性化。および……協力者による、対象への接触・給与行為の確認。』」
アリスのマナ供給。見られていた。当然だ。あの縄の外には30人の兵がいて、この国の人間はみんな、よく見て、よく聞いている。
「『検閲卿は、貴殿らの帰村に間に合うことを望まない。……が。』」
乗り手は、そこで初めて、伝達文ではない、自分の声になった。ほんのわずかに。
「……『間に合わないことを、確認せよ』とは、命じられていない。」
馬首が返された。早馬は、来た道を戻っていく。
伝えるだけ伝えて、引き留めもせず、報告のために走り去る——それが命令の字面通りの、完璧な遂行。字面の隙間に、何かを挟むかどうかは、伝える者の裁量。この国の人間が20年磨き続けた、命令と良心の間の、細い細い技術。
「……悠仁さん!」
「あぁ。」
悠仁は、既に馬上にいた。頭の中で、日付が音を立てて変わる。夜半は、過ぎている。明晩——つまり、もう、今夜だ。行きに丸一日半かかった道を、替え馬を乗り継いで、夜通しで丸一日に縮める。それでも着くのは、日が落ちてから——歌の、始まる頃だ。
「走るぞ。夜通しだ。——今夜、村で全部が起きる。」




