白い石
――地図にない谷
測量の間、悠仁とアリスとステラは、谷を検分した。
盛り土の並びの一番奥、谷の最深部に、他より少し大きな盛り上がりがあった。土の下から、朽ちた木箱の角が覗いている。掘るべきか、悠仁は迷った。墓を暴くことになるのではないか。
「……いえ。」
アリスが、首を振った。
「これ、お墓じゃありません。埋め方が違います。他の31は、ちゃんと『埋葬』です。深くて、丁寧で……多分、埋めた人は、せめて獣に荒らされないようにって。でもこれは浅い。急いで、隠すためだけに埋めてます。」
それからアリスは、盛り土の列の方を振り返り、いちばん端の一基の前で、少しだけ首を傾げた。
「……ただ、あの端の一基だけ。埋め方は同じなのに……土の言うことが、違う気がします。その、うまく、言えないんですけど。」
誰も、掘ろうとは言わなかった。掘っていいものでは、なかった。答え合わせは多分、俺達の仕事ではなかった。
掘り出した木箱は、朽ちかけていたが、中身は油布に包まれて残っていた。
楽器だった。
小ぶりの竪琴が2張。笛が5管。装飾のある太鼓の枠。そして——革紐で綴じられた、分厚い帳面がひと綴り。
「……宮廷詩人団、名簿。」
ステラが、震える手で油布を開いた。表紙には検閲印ではなく、古い王家の紋。頁をめくると、几帳面な楷書で、名前が並んでいた。名前、出身、得意の楽器、俸給の額。31人分の、生きていた頃の事務。
俸給の欄には、几帳面な増減があった。昇給の記録。誰かの筆で二重線を引かれた転居先。欄外に小さく「祝・子誕生」とだけ書かれた行もあった。名簿というものは、生きている間は退屈な紙で、こうなってからは、どんな詩よりも雄弁だった。
「バルドさんの言ってた『焼き惜しみ』……。」
「あぁ。焼く係の誰かが、焼けなくて、ここまで運んで、埋めた。……楽器と、名簿だけでも。」
焼く側の末端にいた、下っ端の女官や小姓。今はどこぞの局の頂点に座っている者もいる、とバルドは言った。悠仁は、名簿の最後の頁を開いた。
そこに、書き込みがあった。名簿の楷書とは別の、若い、乱れた字。インクが涙か雨で滲んでいた。
『ごめんなさい。ごめんなさい。名前だけは、ここに。いつか誰かが、見つけてくれますように。——L』
「……エル。」
「名前の頭文字、でしょうか。」
「多分な。」
L。ドンナルーチェ。頭の中で繋げるのは簡単だった。だが悠仁は、その先を口にしなかった。証拠もなしに口にしていい名前ではないし——もし当たっていたなら、なおさら、迂闊に触れていいものではなかった。20年前、焼けと命じられた小娘が、震える手でここに楽器を埋めて、謝りながら書いた一行。それと、今のあの疲れ切った目の検閲卿。その間にある20年を、外野が軽々しく語る資格はない。
「持ち帰るのは、名簿だけにしよう。楽器は……ここに、置いていく。」
「いいんですか?証拠としては……。」
「楽器は31人のものだ。名簿は、31人の名前だ。」
悠仁は、木箱を丁寧に埋め戻しながら言った。
「名前は借りていく。あの人の歌に返すために。……楽器は、いつか国がちゃんと弔い直す日に、ここで見つかるべきだ。俺達がやっていいのは、そこまでだ。」
埋め戻した土の上に、アリスが白い石を戻した。位置を直すのに、少し時間をかけた。元の通りに。埋めた人が置いた、その通りに。祈りの言葉は声に出さなかった。この谷では、そのほうが正しい気がした。
日が傾き始めた頃、メルロの測量が終わった。
31の点が落ちた図面を、メルロは3部、写した。1部は黒地図の原図。1部は悠仁へ。そして最後の1部を、メルロは少し迷ってから谷の入り口の白い石の下に油布で包んで埋めた。
「……ここにも、置いとく。」
「いいんですか。原図の価値が下がるんじゃ。」
「うちのじいさんの流儀だ。『測った場所には図を残せ。地図ってのは、その土地への手紙だからな』……ってな。」
帰り際、谷の入り口で、アリスが足を止めて振り返った。夕陽が谷に斜めに差し込んで、31の白い石が、点々と、順に光った。
アリスは何も言わず、ただ深く、長く、頭を下げた。全員が、それに倣った。黒地図の測量士たちまで、帽子を取って。
風が谷を渡って、杜松の疎林が、低く鳴った。
その音は少しだけ、歌に似ていた。




