地図にない谷
――西方山地 旧道 翌日
旧道は、道と呼ぶのもためらわれる代物だった。
20年、人が通らなかった道は、半分山に還っていた。倒木を越え、崩れた石橋を迂回し、藪を漕ぐ。メルロと団員たちは、それでも確実に進んだ。先頭の女性団員が古い道標の残骸を見つけるたび、隊列に短い口笛——ではなく、この国仕様の指の合図が回った。
道中、黒地図の歩き方は独特だった。歩幅が、全員同じなのだ。歩数で距離を測る癖が体に入っていて、藪を漕ぐときですら歩幅が乱れない。休憩の合図も水の回し方もすべてが手短で、それでいて誰も急いでいるようには見えなかった。急ぐことと慌てることを、厳密に区別する足取りだった。
「……ここだ。」
昼を回った頃、メルロが足を止めた。
正面には、何の変哲もない尾根の斜面。だがメルロは懐から真鍮の器具を取り出して覗き、角度を測り、手元の図面と突き合わせて断言した。
「官製地図だと、俺たちは今、『尾根の上』に立ってることになってる。……実際はどうだ。」
目の前の藪の奥。よく見れば、地面が、下っていた。
藪を抜けた瞬間、視界が開けた。
谷だった。
細長い、静かな谷。両側の斜面には杜松がまばらに立ち、谷底には浅い流れ。そして——その流れに沿って、点々と、盛り上がりがあった。
自然の丘ではなかった。等間隔だった。人の手の間隔だった。
「…………。」
誰も、何も言わなかった。
数えるまでもなかった。それでも悠仁は、一つずつ、数えた。31。土は痩せ、盛り上がりは20年分沈み、標も、銘も、花もない。ただ、誰かが——埋めた者たちの中の誰かが、せめてもと思ったのだろう。一つ一つの盛り土の頭に、拳大の白い石が一つずつ置かれていた。
「……西門の外の、塚と同じだ。」
アリスが、囁いた。カンタヴィアの西門外。巡礼団が囲んでいた、無銘の白い石の塚。あれは、この谷の「写し」だったのだ。ここに来られない誰かが、都の外に建てた、遥拝所。
谷の空は狭く、両側の斜面が光を選んでいた。午後の日は盛り土の列の半分にしか届かず、届いた半分だけ草の色が濃い。20年、誰にも数えられないまま、それでも季節だけは律儀に、31の土を巡回し続けてきたのだ。
「巡礼団は……ここを知ってるんだ。場所は知らなくても、『ある』ことを知ってる。だから、あそこで祈ってた。」
ステラは、一番手前の盛り土の前に膝をついていた。白い石に積もった20年分の土を、指先で、そっと払う。
「……名前が、ない。」
「あぁ。」
「31人、全員に、名前があったのに。歌があって、楽器があって、家族がいたのに。……ここには、番号すら、ない。」
ステラの声は静かだった。静かなまま、底の方が燃えていた。本を黙らせる国は嫌い——いつか言いかけて飲み込んだ言葉の、その先を、悠仁は初めて見た気がした。
器具を降ろす前に、黒地図は、名乗った。
隊列を組み、帽子を取り、団長から順に、名と、目的と、約束を。「測った図は、あんたたちを掘り返すためでなく、あんたたちを弔い直すために使う」——と。
31の白い石は、狭い谷の光の中で、静かに、聞いていた。
黒地図の面々は、名乗りを終えると、仕事を始めた。
無言だった。誰が指示するでもなく、基準点が打たれ、器具が据えられ、測鎖が伸びていく。メルロは自ら図板を抱え、盛り土の一つ一つの位置を方位と距離で図面に落としていった。31の点。正確に。丁寧に。世界がここに「あった」ことの、証文として。
谷は、静かだった。ジュネプロの古木の下と同じ種類の静けさだと、途中で気づいた。守られている静けさと忘れられた静けさは、耳では区別がつかない。流れの水音と測鎖の触れ合う音だけが、20年ぶりにこの谷へ入った、人の営みの音だった。
「……なぁ、冒険者さんよ。」
作業の合間に、メルロがぼそりと言った。
「俺は歌のことは分からん。政治も分からん。……だがな、これだけは分かる。」
図板の上、31の点を、メルロは節くれ立った指でなぞった。
「地図から消すってのはな。二度殺すって意味だ。」




