賭け金
――スクリヴァーナ 安宿「三本鍵」
黒地図の一行は、大書庫の裏の安宿にいた。バルドの言った通りだった。
三本鍵は、看板より錠前のほうが立派な宿だった。案内された二階の部屋は、扉を開ける前から中の稼業が知れた。廊下まで、紙と革と蜜蝋の匂いがはみ出している。壁には図面が幾重にも鋲で留められ、卓は食事用ではなく製図用に占領され、寝台の一つは巻いた地図の置き場になっていた。よく眠り、よく測る。それ以外が削ぎ落とされた部屋だった。
「——で?」
団長は、卓の上に頬杖をついて、悠仁を睨んだ。ポルタセーラの食堂で見た男だ。歳は30半ば。日に焼けて、指の節が太く、袖口はインクと泥で汚れている。睨んでいるというより、これが素の顔らしい。
「よそ者の冒険者様が、俺たちに何の用だ。言っとくが地図は売り物だ。タダじゃ見せねぇ。あと勧誘なら帰れ。うちは間に合ってる。」
「地図を買いに来たんじゃありません。……測りに行きませんか、って誘いに来たんです。」
「……あ?」
「西の谷を。」
団長の頬杖が、外れた。
卓の周りの団員たち——女が2人、男が2人——の手も、一斉に止まった。全員の目つきが変わったのが分かる。警戒半分、飢え半分。地図を作る人間が「白紙の場所」の名前を聞いた時の、あの目だ。
「……測量許可は4回却下されてる。5回目を出しても同じだ。あの谷は、国が測らせない。」
「許可の話はしていません。」
「無許可でやれば、次は入国許可ごと消える。うちはこの国の古地図の写しがまだ必要なんだ。追放になったら仕事が全部飛ぶ。……そこまでの博打を打つ理由が、うちにはない。」
「理由なら、あります。」
悠仁は、声を落とした。宿の個室とはいえ、ここはこの国だ。壁の向こうの三人目を、常に勘定に入れる。
「あの谷が地図から消された理由を、俺達は知っています。あんたたちが4回却下された理由も。……聞けば、博打の賭け金が変わる話です。聞きますか。」
団長は、長いこと悠仁を睨んでいた。それから団員たちを見回した。誰も、止めなかった。むしろ4対の目が全部「聞け」と言っていた。
悠仁は、この空気を知っていた。職人が仕事の話を聞くときの空気だ。金の話でも義の話でもまだない。ただ、自分たちにしか測れないものの名前が出た。それだけで部屋の温度が変わる稼業を、この五人はしている。
「……クソ。測る前から等高線が見えてやがる。」
団長は、ぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「いいだろう、聞こう。……ああ、そうだ。先に名乗っとく。礼儀だからな。」
男は、卓の上の革筒をどんと立てた。
「クラン『黒地図』が団長、メルロだ。……鳥の名だ。黒い、歌う鳥のな。じいさんが付けた。皮肉なもんだろ、この国でこの名前は。」
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話を聞き終えたメルロは、しばらく、天井を見ていた。
歌のこと。31人のこと。谷のこと。村を発って3日目の夜——期限まで、あと三日になった——の全力投射のこと。悠仁は、ティノの名前と姉弟の事情だけは伏せて、それ以外を全部話した。この手の相手に、小出しは悪手だ。
話の間、団員たちは一度も口を挟まなかった。ただ、要所要所で手が動いた。谷、と悠仁が言えば一人が壁の図面を見やり、20年前、と言えば別の一人が帳面を繰る。耳で聞きながら手で裏を取る聞き方だった。信じるためではなく、測るために聞いている。この連中を口説くのは言葉の熱ではなく数字の辻褄だと、途中から悠仁は語り口を組み替えた。
「……おい。あんた、それ、俺たちに話してよかったのか。」
「あんたたちが検閲局に売る人間なら、ポルタセーラの食堂で『消してる谷』なんて囁いてません。」
「……はっ。」
メルロは、短く笑った。
「聞いたか、お前ら。冒険者様は俺たちの独り言まで測量済みだとよ。」
団員たちの間に、低い笑いが起きた。張り詰めていた個室の空気が、そこで初めて緩んだ。メルロは卓の上に大判の紙を広げた。この国の官製地図の写しと、その横に、黒地図が独自に起こした周辺の測量図。
「……見ろ。ここが問題の区画だ。官製地図じゃ、この尾根とこの尾根が『繋がってる』ことになってる。だが北からの水系を見りゃ一発だ。この水量が抜ける谷が、この間に、絶対にある。等高線を偽造して、谷を一本、尾根で塗り潰してやがるんだ。」
「入り口は。」
「南西からの旧道が一本。20年前の商人の道中記に、『谷の杜松の木立を抜けて』って記述がある。……ジュネプロの杜松の古木、あれはその木立の生き残りだろうよ。あんたの言う『歌』が、谷への道の途中に居着いてるのは、偶然じゃねぇってことだ。」
紙の上で、歌と地図が、重なった。
「メルロさん。改めて、依頼させてください。」
悠仁は、頭を下げた。
「俺達を、谷まで連れて行ってほしい。報酬は言い値で払う。それから——谷で見つかったものの記録を、あんたたちの手で、測って、図に残してほしい。」
「……図に、残す。」
「31人が埋まってる場所です。いつか必ず、掘り返して弔い直す日が来る。その日のために、正確な場所の記録が要る。歌は消されるかもしれない。記憶は……時間に消される。けど。」
「……図面は、残る。」
メルロは、静かに引き取った。それから革筒の蓋を、指で二度、叩いた。団員たちと目を見交わす。頷きが、順に回った。
「賭け金の計算が終わった。乗る。」
「ありがとうございます。それで、報酬は——」
「金はいらん。」
メルロは、にやりと笑った。
「その谷の測量図の『原図』は、うちのもんだ。大陸で誰も持ってない、消された谷の実測図。……言ったろ。うちはそういうものを測って、生きてるクランだ。」
交渉が済むと、部屋は一気に工房になった。器具の点検、糧食の勘定、馬の手配の割り振り。女性団員の一人が壁の図面を剥がしては選り分け、要る分だけを革筒に落としていく。誰も気合いの言葉を言わなかった。この稼業の本気は、声ではなく荷造りの速さに出るらしかった。
それから、メルロは少しだけ声を落として、付け加えた。
「……それとな。うちのじいさん——俺に測量を仕込んだ人だがな。昔から言ってたよ。『国が消した場所ほど、正確に測っておけ』ってな。……ガキの頃は意味が分からんかったが。」
メルロは、官製地図の、偽造された等高線を指で弾いた。
「この歳になって、ようやく分かった。地図ってのはな、あんた。……世界が『あった』ことの、証文なんだよ。」
メルロ(人物)
クラン『黒地図』団長。測量士・製図士。祖父も測量士で、大陸北部の官製地図の多くには祖父の実測が使われているという。クラン名『黒地図』は「白地図の反対——まだ白くない、これから測るべき世界」を指すと本人は説明するが、団員は「単に団長が黒パン好きだから」という説を捨てていない。名は黒い歌鳥に由来する。




