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幕間 記録係の夜

――スクリヴァーナ 灰の図書館分館 奥の間


客たちの足音が石段を降りきって、表の閂が落ちる音を聞いてから、バルドは燭台の芯を切った。


灯がひとつぶん、静かになる。


冷めた茶を舐め、毛布を膝に掛け直す。今夜は、ずいぶんと喋った。20年ぶんの声を、一晩で使った気がする。


それでも、寝る前の仕事が残っている。


一夜も欠かしたことのない、棚卸しである。


バルドは目を閉じた。書庫の扉は、こめかみの奥にある。


——一番。メリッサ。竪琴の。


声には出さない。出す必要がない。名前を繰ると、棚から勝手に、埃も被らずに、その日のままの記憶が降りてくる。


詰め所の若い書記が、清書の途中で居眠りをしておった夕方じゃ。竪琴を抱えたあの女が勝手に入ってきて、机の上に杯を二つ置いた。勤めが残っておると言うたら、笑いおった。「書く手と飲む手は別でしょう、書記どの」。それがわしの、酒の覚え初めよ。悪い女じゃった。注ぎ方だけは、宮廷一、品があったがの。


——二番。トルドー。笛の。


菓子をな、一度もくれなんだ。詰め所の窓の外で毎日毎日、うまそうに干し杏子を齧りおって、目が合うと窓を閉めよる。一度だけ、袋ごと落としたのを拾うてやったら、礼に一粒くれるかと思えば、「数は合っている」と言って袋を検めよった。あの吝嗇が、笛を吹くときだけは、音を惜しまなんだ。不思議なもんじゃ。


——三番。ジョコンド。


……ああ、ジョコンド。お前の詩稿はな、詩よりも先に、字が謎かけじゃった。清書のたびに詰め所へ呼びつけて、これはなんと読む、と一字ずつ問い質した。しまいに奴め、笑ってこう言いおった。「読めんでいいのです、書記どの。歌は紙の上にはおりませんから」。


減らず口め。……その減らず口に、わしは後年、命を拾われることになるんじゃが、それはまだ先の話じゃ。


四番、五番。譜面棚の場所争いで、メリッサとトルドーが楽器庫で睨み合うた日があった。仲裁に呼ばれたのがなぜか記録係のわしで、登録簿を小脇に「古い登録が上の段」と裁定してやったら、双方から恨まれた。恨まれたくせに、その晩は双方から酒と杏子が届いた。杏子は、三粒じゃった。数えたから間違いない。


冬になると、詰め所に連中が湧いた。詩人棟の暖炉は煙るくせに、わしの詰め所の竈だけは、なぜかよう燃えたからじゃ。狭い部屋に詩人が五人も六人も詰めて、譜面を炙るな、湯気で紙が波打つ、と小言を言うわしの周りで、連中は節の切れ端を投げ合うておった。誰かが口ずさむと、誰かが続きを歌う。続きが気に食わんと、また別の誰かが上書きする。歌というものが、ああやって、湯気と一緒に湧いて出るものじゃとは、わしはあの詰め所で初めて知った。


詩人棟の連中は、わしの詰め所を出茶屋かなにかと勘違いしておったのよ。


……勘違いさせておいたのは、わしじゃがな。竈の薪を、切らしたことは一度もなかった。


そして、春。


祭りの前のひと月、棟は昼も夜も鳴っておった。丘という丘が人で埋まる、あの祭りじゃ。当日、わしは詰め所で留守番のつもりでおったのに、メリッサに襟首を掴まれて丘へ引きずり出された。大路を歌が川のように流れて、パン屋はパン屋の歌を、船乗りは船乗りの歌を歌うておった。音痴のわしが口をもごつかせておったら、隣で誰かが笑うた。


木苺の菓子を両手に抱えた、いちばん年下が。


——順番を、ひとつ飛ばした。よかろう、今夜は棚卸しではのうて、里帰りじゃ。


三十一番の棚は、いちばん新しくて、いちばん小さい。


あの子が団に入った日のことは、名簿の日付ごと覚えておる。師匠の後ろに隠れるようにして詰め所に来て、登録の署名の手が、緊張で震えておった。それが半年もすると、厨房の女中と親しゅうなって、しょっちゅう菓子をくすねてきおるようになった。詩人棟の螺旋階段を、世の終わりのような顔で登りおった。高いところが、からきし駄目でな。そのくせ歌の覚えだけは団の随一で、師匠の節を一度で取って、直しまで入れよった。


詰め所の茶が、あの子の来る日だけ、二人ぶん減った。


歌のことなど何ひとつ分からんわしを相手に、あの子はよう喋った。祭りの丘で、音痴のわしをつかまえて、こう言いおったこともある。「じょうずへたの話じゃないんですよ、書記どの。歌はね、歌ったひとじゃなくて、聴いたひとの中に棲むんです。だから書記どのの中にも、いま、いっぱい棲みました」。


……ようもまあ、ぬけぬけと。


わしはあのとき、笑って聞き流した。半分も、聞いておらなんだ。


聞いておけば、よかったのう。


——それから。


時が、飛ぶ。棚卸しの棚は、ここで色が変わる。


先の王が、身罷られた。


城じゅうが黒い布で覆われて、鐘の音まで布を被せたように鈍うなった。その中で、詩人棟だけが、妙に明るかった。連中は歌を作っておった。夜昼なしに、作っては消し、作っては消し。楽器庫の前を通りかかったわしを、メリッサが手招きしてな。「書記どの、登録をお願い。とびきりのが、できるから」。


何の歌かと問うたら、あの女は、少しだけ声を落とした。


「亡くなられた兄王子さまが、遺していかれた言葉があるの。それをね、歌にするのよ。戴冠の日に、あたらしい王さまに、聴いていただくの」


誇らしげじゃった。棟の連中はみな、誇らしげじゃった。あの歌の題を書き込むつもりで、わしは登録簿の新しい頁の角を、折っておいた。


その頁が埋まる日は、来なんだ。


——夜。


宿直の見回りの帰り、渡り廊下で、わしは足を止めた。


松明が、ばかに少なかった。中庭を、列が横切っていった。誰も叫ばず、誰も走らず、靴音だけが揃うておった。列の中ほどに、見覚えのある竪琴の袋が、兵の肩に担がれておった。あれは楽器の運び方ではなかった。薪の、担ぎ方じゃった。


わしは柱の陰におった。


声は、出さなんだ。足も、出なんだ。記録係の頭が、先に動いてしもうたのじゃ——ここで飛び出して、何になる。相手は誰の兵じゃ。命じたのは誰じゃ。……頭が算盤を弾いておるあいだに、列は門をくぐって、おしまいじゃった。


わしが一晩で老いたのは、あの柱の陰でよ。


頭数は、数えなんだ。数えられる夜では、なかった。


——そして、翌る日じゃ。


お若いの、わしが本当に恐ろしかったのは、あの夜ではない。翌る日の、宮廷じゃ。


朝、詩人棟は空で、渡り廊下側の扉には、真新しい錠が下がっておった。それだけなら、まだええ。……回廊で行き合う顔、行き合う顔、誰ひとり、そのことを口にせなんだ。食堂で隣に座った同輩に、棟のことを問うたら、そやつは匙を止めもせずに、「東の空き棟が、どうかしたか」と言いよった。


空き棟、と言いよった。前の日まで、歌が湧いておった棟をじゃ。


厨房の前を通ったら、あの女中が、わしの顔を見て、泣きそうな顔で目を逸らした。それきり、二度と目が合うことはなかった。詰め所の茶は、その日から、ずっと一人ぶんじゃ。


達しがあったわけではない。布告も、箝口令の紙切れ一枚も、出てはおらん。ただ、宮廷じゅうが一夜で申し合わせたように、31人を、初めからおらなんだことにした。恐れというものはな、命令よりも仕事が早いんじゃよ。


わしは詰め所に戻って、ありのままを書いた。日付。連れて行った者の所属。人数の欄には、名簿の頭数をそのまま写した——31。棟が空なら、31のはずじゃった。


書いたものが灰になり、上役が消え、わしが「療養」を仰せつかるまで、三日とかからなんだ。


療養先の寝台で、わしは考えた。書いたものは残らん。書いたものは見つかる。燃やされる。なら、どうする。……そのとき、頭の中で、減らず口が笑いおった。読めんでいいのです、書記どの。歌は紙の上にはおりませんから。


紙の上におらんのなら。


人の中に、おるんじゃろう。


聴いたひとの中に棲む、と言うた娘もおったわい。


それからの20年は、お前さんがたの知っての通りよ。宮廷が消した31人を、わしは毎晩ここへ並べて、癖ごと、声ごと、棚に戻してきた。国じゅうが「おらなんだこと」にした連中を、わしの頭の中でだけは、毎晩おったことにしてきた。


バルドは、目を開けた。


蝋燭が、指二本ぶん短くなっていた。膝の毛布の上で、両の拳が、いつの間にか固く握られていた。


……最後の棚が、残っておる。


——三十一番。


そこで、いつものように、声が止まった。頭の中の声ですら、止まった。20年、しまいまで言えたことのない名前じゃ。


じゃが、バルドは窓の外を見た。丘の下に、灰色の街が眠っている。その遥か向こう、北東の空の下のどこかに、杜松の古木が立っていて——あの子の歌が、まだ、鳴っておるという。


20年、途中のままの歌が。


「……もうすこしじゃ。」


声に出したのは、それだけだった。


バルドは机に向き直り、抽斗から小刀を出して、使われない羽根ペンの尖を削った。毎晩のことである。書かぬと決めた日から、一晩も欠かさず削ってきた。いつでも書ける形にしておくのが、書かぬということの、わしの作法じゃ。


真新しい尖を燭台の光に一度かざして、老人は満足げに頷き、ペンを置いて、灯を消した。


暗がりの中で、囁くほどの声が、ひとつ。


「——リリカ。」


今夜は、しまいまで言えた。

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