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三十一人の名前

――灰の図書館 コレスタニア分館 奥の間


「……時に、お若いの。」


バルドは、杯を持ち直して、話の向きを変えた。


「お前さんたち、灰の図書館の本館に、義理はあるかね。」


「義理、というか……借りが。カプランドの分室で世話になって、本館への紹介状を貰いました。まだ使っていませんが。」


「ほう。ピナ嬢の紹介状か。」


バルドはそれを聞くと、なにやら得心したように頷いた。


「なら話が早い。……お前さんたちの持っとる問いは、二つのはずじゃ。一つ。歌の内容を裏付ける、歌の外の記録はあるか。二つ。谷は、どこか。」


「……その通りです。」


「一つ目の答え。ある。わしの頭の中にな。ただし、わしの独り言だけでは、王は動かん。耄碌爺の世迷い言と言われれば終いじゃ。……じゃが、独り言と、あの子の歌と、それから『物』が揃えば、話は変わる。」


「物。」


「あの夜、詩人棟から運び出された物がある。31人の楽器と、詩稿と……宮廷詩人の登録名簿。焼くよう命じられたそうじゃが、焼かれた灰の量が、帳簿と合わん。誰かが、どこかで、焼き惜しんだ。」


「……焼き惜しんだ誰かに、心当たりは。」


「命じられて焼く側におった人間は、皆、下っ端の女官や小姓じゃ。」


バルドの細い目が、意味ありげに悠仁を見た。


「——今は出世して、どこぞの局の頂点に座っておる者も、おるがな。」


ドンナルーチェ。


その名前を、バルドは口にしなかった。口にしないことで、口にするより雄弁に語った。あの疲れた目の検閲卿は、あの夜、焼く側の末端にいた。そして、もしかすると——。


「二つ目の答え。谷の場所は、わしも正確には知らん。地図から消された谷は、地図で探せんからの。……じゃが、消す前の地図なら、話は別じゃ。」


「消す前の地図……20年以上前の、官製地図ですか。そんなもの、検閲局が残しているとは。」


「検閲局はな。」


バルドは、また悪童の顔になった。


「じゃが、地図というものはな、お若いの。国が作る前から、商人が作り、旅人が作り——『測る者』たちが、作っておるんじゃよ。国境の外でな。」


「……黒地図。」


ステラが、小さく言った。ポルタセーラの宿の食堂。囁けない団長。『この国、地図から消してる谷がある』。


「あの連中が、この街に来ておる。大書庫に、古地図の写しを求めてな。検閲局に体よく追い返されておったが……お前さんたちとなら、話が合うじゃろうて。連中の欲しいものと、お前さんたちの欲しいものは、同じ場所にあるんじゃから。」


話が、繋がっていく。歌と、記憶と、地図。ばらばらに転がっていた欠片が、一本の細い道になっていく。


アリスは話の間ずっと、手帳も取らずに聞いていた。31という数を、彼女は多分、祈りの数え方で覚えている。悠仁は欠片の繋がる手応えと一緒に、その道の細さも測っていた。歌と、年寄りの記憶と、まだ見ぬ地図。どれか一つ欠けても、王の前には立てない。


「……バルドさん。最後に、一つだけ。」


立ち上がりかけて、悠仁は聞いた。ずっと引っかかっていたことだった。


「あなたは20年、覚えて、黙って、生き延びてきた。それが正解だったから、あなたは今ここにいる。……なのに、どうして俺達みたいな流れ者に、こんなにあっさり、全部話してくれるんですか。」


老人は、少しの間、黙った。


それから、机の上の、使われない羽根ペンを、骨ばった指でそっと撫でた。


「……お前さんの言う通り、覚えて、黙って、生き延びるのが、わしの正解じゃった。じゃがな、お若いの。わしはもう、70を越えた。」


「……。」


「頭の中の書庫はな、建てた者が死ぬと、蔵書ごと燃えるんじゃよ。……わしはこの20年、毎晩、寝る前に31人の名前を諳んじてきた。忘れんようにな。じゃが近頃、時々……順番が、あやしゅうなる。」


老人は、静かに笑った。笑っているのに、部屋の空気だけが、泣いているようだった。


「わしの書庫にも、閉館の刻限が近い。……そこへ、お前さんたちが来た。あの子の歌が、まだ鳴っておると言うて、な。」


使われないペンの尖は、よく見れば真新しく削られていた。いつでも書ける形のまま、二度と書かないと決めた者の机。この部屋にあるのは我慢ではなく、もっと静かで硬いものだった。


バルドは、羽根ペンを置いて、まっすぐに悠仁を見た。


「頼みがある、ではない。取引じゃ、でもない。……ただの、年寄りの願いじゃ。」


「はい。」


「わしを、あの子の歌のところへ、連れて行ってくれんかの。」


「——31人の名前をな、あの子の歌に、返してやりたいんじゃ。」

灰の図書館コレスタニア分館(施設)

記録の街スクリヴァーナに置かれた灰の図書館の分館。蔵書は魔法・歴史・博物にわたり、その規模は本館に次ぐとされる。検閲局の監督下にあるため、所蔵する書物は全て検閲印付きである——少なくとも、書架に並んでいるものは。閲覧料は銅貨50枚。掟は全館共通、「知って、動かない」。

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