書かない書記
――灰の図書館 コレスタニア分館 奥の間
奥の間は、書庫というより、書斎だった。
壁の三面が書架。だが妙なことに、机の上には、書きかけの紙が一枚もなかった。インク壺は蓋が閉まり、羽根ペンは埃を被らない程度に手入れされて、しかし使われた形跡が薄い。書記の街の、図書館の主の机が、だ。
部屋には茶と紙と、微かに薬湯の匂いがした。書架の本はどれも背が読めないほど古いが、埃はどこにもない。毎日誰かの手が触れている書架の匂いだった。窓は一つで、大書庫の灰色の壁だけが見える。眺めのために切られた窓ではなく、光のためだけの窓だった。
その机の向こうに、老人が座っていた。
小柄で、痩せて、糸のように細い目をしている。歳は70をいくつか越えたあたりか。膝には毛布、手には湯気の立つ杯。どこにでもいる、書庫の番人めいた老人に見えた。
「……バルドと申します。当分館の、居候のようなものです。」
「居候。」
「ええ。書庫の主は、あちらの受付のご婦人でしてな。わしはただ、ここの椅子が体に合うだけの年寄りです。」
老人は柔らかく笑って、それから、細い目をわずかに開いた。
「——で。『あの夜』と、口に出しなすったか。この国の、この街で。」
「はい。」
「命知らずか、よそ者か。」
「よそ者です。ただ……知らずに聞いてるわけじゃありません。」
悠仁は、順を追って話した。夜の歌のこと。ジュネプロ村のこと。四日後に迫った全力投射のこと。そして——歌の主の、名前のこと。
「……その名を。」
初めて、老人の顔から、柔らかさが消えた。
「その名を、どこで。」
「本人から聞きました。……リリカ。宮廷詩人、リリカ。」
湯気の立つ杯が、かたり、と音を立てて机に置かれた。老人は目を閉じ、長いこと、そのままでいた。閉じた瞼の奥で、20年分の何かが行き来しているのが、傍目にも分かった。
「……生きて、おったか。」
やがて、掠れた声がした。
「いや……生きては、おらんのだろうな、その様子では。だが、残っておったか。あの子の声が。あの子の歌が。……そうか。ジュネプロの杜松の下か。……ああ、そうか。あそこは、谷への道の、途中だ。」
「バルドさん。あなたは、何を知ってるんですか。」
老人は目を開けた。糸のような目の奥に、書庫の灯りが映っていた。
「……お若いの。わしはな、20年前まで、王宮の書記官じゃった。」
「王宮の。」
「あの夜、わしは宿直での。……詩人棟から連れ出される列を、渡り廊下から、見た。わしの仕事は記録じゃ。国で起きたことを、書き残すのが仕事じゃ。じゃから翌朝、わしは書いた。ありのままを。日付と、人数と、連れて行った者の所属と。……そうしたら、どうなったと思うね。」
「……検閲局、ですか。」
「まだ、できたばかりの役所じゃった。」
老人は、自分の右手を、しみじみと眺めた。
「わしの書いたものは、その日のうちに灰になった。上役は左遷され、わしは『療養』を命じられた。……その時に、わかったんじゃよ。この国では、書いたものは、残らん。書いたものは、見つかる。燃やされる。書いた者ごと、な。」
「だから……書くのを、やめたんですか。」
「いんや。」
老人は、初めて、にやりと笑った。悪童のような笑いだった。
「書くのをやめて——覚えることに、したんじゃ。」
バルドは、こつ、こつ、と自分のこめかみを叩いた。
「ここには、検閲局も手が出せん。ここは燃えん。ここは、わしが死ぬまで、誰にも見つからん。……あの夜からの20年、わしはこの国で起きた『書いてはいけないこと』を、ぜんぶ、ここに書いてきた。31人の名前も。連れて行った者の名前も。命じた者の、名前もな。」
書かない書記。埃を被らない程度に手入れされた、使われないペン。この老人は20年間、たった一人で、頭の中に禁書庫を建ててきたのだ。
悠仁は、老人の毎日を思った。朝、書架の埃を払い、湯を沸かし、椅子に座って、頭の中の書庫の棚卸しをする。書き癖の染みついた右手は、20年、何も書かずにいられただろうか。机のペンが手入れされ続けている理由を、悠仁は聞かないことにした。
「……ひとつ、聞いてもいいですか。」
黙って聞いていたステラが、口を開いた。
「灰の図書館の掟は、『知って、動かない』。……あなたは、図書館の人じゃない。ただの居候。……そういう、ことですか。」
「ほっほ。」
老人は、心底愉快そうに笑った。
「察しのいいお嬢さんじゃ。——そうとも。図書館は、動かん。動けん。それが掟で、掟には掟の値打ちがある。じゃからわしは、死ぬまで『居候』よ。……わしがいつか、この頭の中身をどこかで喋り散らしたとしても。」
細い目が、すっと開いた。
「それは図書館とは、なんの関係もない。ただの、耄碌した年寄りの、独り言じゃ。」




