選択肢の整理
――ジュネプロ村 パーチの天幕 夜明け前
天幕に戻っても、誰も眠ろうとしなかった。
夜明け前の天幕は冷えて、誰かが湯を沸かした。カインが黙って全員の椀に注いで回り、フルールの椀にだけ少し多く注いだ。飲みたい者がいたわけではない。手に持たせる温かいものが要る夜だと、あの男は知っているのだ。
「……整理するぞ。」
悠仁は、燭台の火を挟んで車座になった仲間を見回した。全員の顔に、二夜分の寝不足と、それよりずっと重いものが乗っていた。
「あの人は、20年前の王位継承の闇を歌にしようとして消された31人の、最後の生き残りだ。『黙されの粛清』——名前をつけることすら許されなかった夜の、生き証人。いや……生き、では、ないが。」
「歌の中身は、ほぼ告発文ですね。」
ステラが、手元の帳面から顔を上げた。昨夜の歌を、ステラは記憶を頼りに文字に起こしていた。書くという行為がこの国でどんな意味を持つかを承知の上で、それでも書き残すことを選んだ横顔に、誰も何も言わなかった。
「現王の継承には影がある。第一王子の病没の不自然さ。読まれなかった遺言。……これが公になれば、王権の正統性は根元から揺らぐ。」
「つまり、あの歌を『最後まで』聞くってことは。」
「……この国の一番深い傷に、指を突っ込むってことだ。」
悠仁は、燭台の火を見つめた。
「選択肢を並べる。ひとつ。国の命令通り、期限の夜の全力投射を黙認する。リリカさんは消え、村は救われ、俺達は署名を貰って次へ進む。……死者は、二度殺される。あの夜は、永遠に『なかったこと』になる。」
「却下。」
ミーナが即座に言った。悠仁は頷いて、続けた。
「ふたつ。歌を最後まで聞いて、その全部を公にする。真実は明るみに出る。あの夜は歴史になる。……ただし、王権は揺らぐ。この国は多分、割れる。ハーダリアと戦争どころじゃなくなるし、混乱すれば、新しい犠牲が出る。粛清をもう一度やる口実を、誰かに与えるかもしれない。」
「……それは、リリカさんの望みなんでしょうか。」
アリスが、静かに言った。
「あの人は『告発してほしい』とは、一度も言ってません。『最後まで聞いてほしい』って、それだけです。」
「……そこなんだよな。」
悠仁は、三本目の指を折った。
「みっつめ。歌は、最後まで聞く。俺達が。証人として。……ただし、公表はしない。」
天幕の中が、しんとなった。
「真実は、記録として残す。しかるべき形で、しかるべき場所に。そして——王にだけ、突きつける。あんたの国の静けさの下に、31人が埋まってる。俺達はそれを知ってる。あんたはそれを知って、王でいろ、と。」
「……それで、リリカさんは浮かばれるんでしょうか。」
「わからん。」
悠仁は、正直に言った。
「誰も完全には救われない案だ。真実は世に出ない。国は変わらないかもしれない。リリカさんの無念に、これで足りるのかも、わからない。……ただ、この案なら、新しく死ぬ人間だけは、出ない。」
燭台の火が、悠仁の折った三本の指に影を作っていた。三つの案のどれもが、誰かに何かを諦めさせる。全員が助かる道を探すのが自分の役目だと思ってきたが、この国に入ってから、その物差しそのものが贅沢品だったのだと思い知らされ続けている。
「……足りるかどうかは。」
フルールが、ぽつりと言った。
「本人に、聞きませんか。歌の主に。……勝手に決めるのは、この国が20年やってきたことと、同じですから。」
その一言で、決まった。
「……ああ。その通りだ。」
悠仁は息を吐いて、両手で顔を擦った。
「……ひとつだけ、気になっていることが、あります。」
アリスが、両手を膝の上で重ねた。
「第一幕の歌に、ありました。この国では昔、死者は歌に送られて、土へ還ったって。……リリカさんは、誰にも送られていません。20年間、誰にも。だから、還れないんじゃないでしょうか。もしそうなら、あの方に本当に必要なのは、討伐でも、保護でもなくて。」
アリスは、そこで言葉を選んで、選び直して、結局いちばん簡単な言葉を置いた。
「——お葬式、なんだと思います。」
天幕の空気が、また一段、静かになった。誰も笑わなかった。多分、全員が同じ感触を、別々の言葉にできないまま持っていたからだ。
「ただ、どの道を選ぶにしても、足りないものがある。証拠だ。歌だけじゃ、王は動かない。『歌の内容は事実である』と補強できる、歌の外の記録。……20年前の、あの夜の。」
「この国で、それを持ってる人間なんて……。」
「いる。」
答えたのはステラだった。帳面を閉じて、まっすぐに悠仁を見る。
「……書いてはいけない歴史を、書かずに残してる人たちが。」
「灰の図書館か。」
「……ん。コレスタニアの分館は、記録の街スクリヴァーナ。ここから南西へ1日半。……大書庫と、検閲局の出先と、それから——『書かない書記』たちの街。」
天幕の外で、空が白み始めていた。村のどこかで鶏が鳴き、その当たり前の音に、全員が少しだけ救われた。20年前の夜の話を聞いた朝でも、朝は来る。卵は産まれ、畑は待っている。世界のそういう鈍感さが、今朝はありがたかった。




