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第二幕

――ジュネプロ村 古木の下 二夜目


二夜目のリリカは、なかなか歌い出さなかった。


風が変わり、靄が月光の中に形を結んでからも、長いこと杜松の葉擦れだけが夜を埋めていた。悠仁達は急かさなかった。楽しくない歌だと、本人が予告していた。楽しくない歌を歌うのに必要な時間というものが、あるのだろう。


この夜は、縄の外の兵が少し増えていた。非番の者が自分から出てきているのだと、ロヴェルトが言い訳のように悠仁へ耳打ちした。焚き火は今夜も絞られ、月は昨夜より細い。アリスは最初から杖を胸の前に立て、注ぎの構えを取っていた。長丁場になることを、体のほうが先に知っていた。


『……ねぇ、旅のひとたち。』


やがて、歌の代わりに、話し声が来た。


『うたうまえに、すこしだけ、はなしをしてもいい?』


「もちろん。」


『わたしね、宮廷詩人だったの。それはもう、はなしたわね。……宮廷詩人っていうのはね、王さまの、おかかえの歌うたい。でもほんとうは、それだけじゃないの。』


リリカの声は、記憶を一枚ずつめくるように、ゆっくりと続いた。


『歌はね、この国では、記録だったの。文字を知らないひとたちの、歴史の教科書。パン屋の歌にはパンの焼きかたが、船乗りの歌には浅瀬の場所が、子守唄には流行り病の年が、ぜんぶ、はいってるの。そして宮廷詩人は……国でおきたことを、ぜんぶ、歌にしてのこす係。いいことも。わるいことも。』


「……悪いことも。」


『そう。王さまが、まちがえたことも。』


だから、とリリカは言った。


『だから、あたらしい王さまは、わたしたちが、こわかったの。』


そして、第二幕の歌が始まった。


それは、第一幕とはまるで違う歌だった。旋律は低く硬く、時折、行進の足音のような拍子を刻んだ。


——20年前。先王が没した。


——王位を継ぐはずだった第一王子は、病弱で、心優しく、そして歌を愛した。


——継いだのは、第二王子だった。継承の経緯には、影があった。第一王子の急な病没。間に合いすぎた弔いの支度。読み上げられなかった先王の遺言。


——宮廷詩人と楽士たちは、その影を、歌にしようとした。それが仕事だったから。いいことも、わるいことも、歌にしてのこすのが。


歌は行進の拍子の下で時々ほどけて、名を持たない小さな挿話を挟んだ。譜面を写す当番の朝のこと。楽器倉の鍵の在り処のこと。稽古のあとに31人で分けた焼き菓子のこと。恐ろしい夜へ向かっていく歌が、途中の景色だけは、どうしようもなく幸せだった。それが一番、こたえた。


『……その夜のことをね。』


歌の合間に、リリカの声が、囁きで挟まれた。


『この国のひとたちは、なまえをつけなかったの。なまえをつけると、はなしてしまうから。はなすと、のこってしまうから。だからただ——「あの夜」って、いうの。』


——あの夜。宮廷の詩人棟に、火はかけられなかった。血も、ほとんど流れなかった。この国は、あの夜ですら、静かだった。


——詩人と楽士、あわせて31人が、消された。連れ出された者たちは、夜のうちに、西の谷へ。


——ただ、いなくなった。歌と、一緒に。


『わたしは、31ばんめ。』


リリカの声は、そこだけ、歌でも囁きでもなくなった。


『いちばん、わかかったの。師匠がね、わたしだけ、荷車の粉袋のかげに、かくしてくれたの。「おまえは歌をおぼえるのが、だれよりはやい。だから、ぜんぶおぼえて、いきのびて、いつか、さいごまでうたえ」って。……でもね、旅のひと。』


『かくれた粉袋のかげから、みんなが連れていかれるのを、見ていることしか、できなかったの。わたしの師匠も。となりで笛を吹いていた子も。みんな、みんな……しずかに、連れていかれたの。だれも、さけばなかった。さけんだら、村のひとや、家族に、累がおよぶから。』


『この国のひとは、さいごまで、しずかだったの。』


歌が、途切れた。


誰も、何も言えなかった。アリスの杖の光だけが、変わらぬ律動でマナを注ぎ続けていた。それは応急手当てというより、もう点滴で繋ぐ看取りに似ていると悠仁は思い始めていた。


フルールは声を出さずに泣いていた。泣き方まで、いつのまにかこの国の型になっている。ミーナは膝を抱え、目だけを開けて闇を睨んでいた。カインは動かなかったが、組んだ腕の指が二の腕に深く食い込んでいた。誰も慰めを言わなかった。慰めの言葉は、この歌の前では全部薄すぎた。


『……つづきは、うたえなかった。』


リリカは言った。


『わたしはにげて、にげて、この木のしたまできて……ここで、たおれて。それからのことは、よく、おぼえていないの。気がついたら、からだがなくて、声だけになっていて。……ずっと、ここで、うたっていたの。31人の歌を。とちゅうで切られた、あの歌のつづきを。だれかが、きいてくれるまで。』


「……西の谷、と言いましたね。」


悠仁は、静かに確認した。ポルタセーラの宿の食堂で聞いた囁きが、頭の中で音を立てて繋がっていく。等高線が迂回する谷。地図から消された谷。


『ええ。』


リリカの声は、夜の底で、はっきりと頷いた。


『みんなが眠っているのは——地図にない、谷。』

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