長い歌
――同夜 古木の下
その夜から、悠仁達は縄の内側で「声のひと」を迎えることにした。
討伐隊には目をつぶってもらった。正確には、ロヴェルトが「冒険者による対象の詳細観測を継続する。全隊、観測の妨げとならぬよう後方で待機」と、嘘は一つも言っていない命令を堂々と下し、全員に古木へ背を向けさせた。命令書の文言と良心の隙間を縫う技術において、この国の人間の右に出る者はいない。
背を向けた三十人は、しかし耳までは背けられない。それをロヴェルトも知っていて、あえて何も言わなかった。夜営の火は小さく絞られ、兵たちは焚き火を囲む形のまま、誰一人喋らずに座っていた。聞く気のない者の座り方では、なかった。
風が変わり、声が来た。
『……きて、くれたのね。』
「約束ですから。」
悠仁は、古木の根元に座った。隣にアリス。フルール。少し離れてミーナとカインとステラ。
「歌を、聞かせてください。最後まで。」
『……!』
靄が、震えた。喜び、と呼んでいい震え方だった。だが、すぐにその輪郭が翳る。
『でも……長いの。とても。ひと晩じゃ、おわらない。それに——あなたたちの、マナを、わたし、すってしまう。ちかくで聞いたら、きっと。ちょっとずつ、ちょっとずつ……こわれた笛みたいに、わたし、そういうふうにしか、もう、鳴れないの。』
「大丈夫です。」
アリスが、一歩前に出た。杖を両手で抱いて、まっすぐに靄を見上げる。
「マナなら、分けられます。私、回復術士なので。吸われる分より少し多く、こちらから注ぎ続けます。それなら、誰も倒れません。あなたも、遠慮なく歌えます。」
『……いいの?』
「はい。」
アリスは頷いて、それから、そっと付け加えた。
「その代わり、ひとつだけ、教えてください。」
『なぁに。』
「あなたの、お名前。」
夜が、止まった気がした。
杜松の葉が、さわ、と鳴った。靄の輪郭が、揺れて、縮んで、それから——とても小さな、掠れた声がした。
『……なまえ。』
「はい。歌ってくれる人の名前を知らないまま聞くのは、失礼ですから。」
『なまえ……わたしの、なまえ……。』
声は、その言葉を、壊れ物のように何度も確かめた。20年、誰にも呼ばれなかった名前。名前というものは、呼ぶ人間がいて初めて存在できる。この人は歌と一緒に、名前まで失いかけていたのだ。
長い、長い沈黙のあと。
声は、20年ぶんの掠れと一緒に、それを口にした。
『……リリカ。』
『宮廷詩人、リリカ。……おぼえていて、くれる?』
「はい。」
アリスは、泣きそうな顔で、しっかりと笑った。
「リリカさん。歌を、聞かせてください。」
『……ふふ。』
靄が、月光の中で、ふわりと形を整えた。心なしか、昨夜より人の形に近く見えた。
『じゃあ、うたうわね。これは、わたしたちの歌。あの夜に、とちゅうで切られた歌。……第一幕は——この国が、まだ、歌の国だったころの、はなし。』
そして、歌が始まった。
それは、物語だった。旋律に乗せた、長い長い物語歌。
歌の道カンタヴィアの名の由来。春の祭りの日には丘という丘が人で埋まり、都の大路を歌が川のように流れたこと。先々代の王がひどい音痴で、それでも毎年、誰より大きな声で先頭を歌ったこと。パン屋にはパン屋の歌、船乗りには船乗りの歌、恋する娘には恋の歌があって、子どもは眠るために歌われ、死者は歌に送られて土へ還ったこと。
笑い話と、恋の歌と、子守唄が、次々に紡がれていった。
歌は時々、聞き手を選ぶように調子を変えた。市場の売り声の節が出るとミーナが小さく吹き出し、婚礼の歌の段ではアリスが目を細めた。カインは腕を組んだまま動かなかったが、船乗りの歌の拍子に、指が一本だけ膝を打っていた。歌というのは不思議なもので、知らない国の知らない祭りの話なのに、聞いているとこちらの記憶のどこかが勝手に開いていく。悠仁は途中から、桜の並木を思い出していた。理由は、分からないままにしておいた。
悠仁達は、夜明け前まで聞いた。アリスの杖は淡い光を絶やさず、リリカの声は夜が深まるほど艶を取り戻していった。フルールはいつからか、ごく小さな声で唱和していた。誰も止めなかった。縄の外では、背を向けたままの兵たちが、身じろぎもせずに聞いていた。何人かの肩は、震えていた。
夜気は冷えたが、誰も火を欲しがらなかった。アリスの杖の光は注ぎ続けるうちに呼吸のような明滅を覚え、リリカの歌とゆっくり拍を合わせ始めていた。マナを分けるというのがどういう作業なのか悠仁には見えないが、アリスの額に汗が浮き、それでも杖が一度も揺れないことだけは見えた。代償はいつも、見えないところで誰かが払っている。
歌の国は、あった。
20年前まで。確かに、この場所に、あった。
空が白み始める頃、リリカは歌を区切って、囁いた。
『……つづきは、あしたの夜。』
『第二幕は……たのしくない歌よ。それでも、聞いてくれる?』
「聞きます。」
悠仁が答えると、リリカの靄は、ほどけるように薄くなりながら、最後に小さく笑った。
『……第二幕は。』
『——あの夜の、はなし。』
リリカ(人物)
「声状の存在」の名乗り。宮廷詩人を自称するが、現行のコレスタニア王宮に該当の役職は存在しない。宮廷詩人の職制は約20年前——静謐法の制定と同年に廃止されており、最後の宮廷詩人が誰であったかを記す公文書は、現存が確認されていない。




