声のひと
――同夜 古木の観測点
夜半、風が変わった。
最初に気づいたのはフルールだった。次にミーナ。悠仁が皆に目配せをした時には、討伐隊の観測点にも緊張が走っていた。兵たちが音撃筒の台座に取り付き、砲口が古木へ向く。
「待ってください。」
悠仁は、ロヴェルトに約定を確認した。最初の接触はパーチに任せる——昼のうちに取り付けた、書面にできない約束だ。ロヴェルトは頷き、部下たちに「観測を継続。射撃は私の号令があるまで待て」と静かに命じた。号令を出す気が本人にどれだけあるのかは、その横顔からは読めなかった。
悠仁は縄をくぐった。後ろにアリスとフルール。カインとミーナとステラは縄の内側ぎりぎりで、いつでも飛び出せる位置に散った。
月が高くなるまで、長い待ち時間があった。夜露が草を重くし、観測点の角灯の火が絞られる。悠仁は自分の鼓動が思ったより速いことに気づいていた。化け物との戦いの前とは違う速さだった。戦いなら、体が手順を知っている。これから始まるのは、誰も手順を知らないことだ。声だけの相手に礼というものがあるのかどうかさえ、まだ誰も知らない。
歌が、始まっていた。
近くで聞くそれは、荒々しさの欠片もなかった。澄んだ、女の声。夜気に溶ける寸前の細さで、旋律は静かに上がり、下がり、震える。そして——古木の枝々の間、月光の溜まるあたりの空気が、かすかに揺らいでいた。
目を凝らせば、そこに「輪郭」があった。
人の形をした、影のような、靄のような。顔はない。体もない。ただ、声のある場所。そうとしか言いようのない何かが、月光の中に、立っていた。
「……こんばんは。」
我ながら、間の抜けた第一声だと思った。だが、他にどう声をかければいいのか、道中いくら考えても、結局これしか残らなかったのだ。化け物への口上でも、討伐の宣告でもなく、夜に会った人への挨拶。
歌が——止まった。
靄の輪郭が、ゆらり、とこちらを向いた。気がした。
『——きこえて、いるの。』
声だった。歌ではない、話し声。乾いた大地に水が染みるような、掠れた、信じられない、という声。
『きこえて……いるのね。あなた、たち。』
「聞こえています。」
悠仁は、ゆっくりと言った。
「昨日も、一昨日も。カンタヴィアの屋根の上でも、聞いていました。……綺麗な歌でした。」
沈黙があった。長い沈黙だった。それから、その靄は——笑ったように、震えた。
『……きこえていると、いってくれたのは。』
声が、細かく揺れた。
『20年で……ふたりめ。』
「ふたりめ。」
『ひとりめは、ちいさな、ちいさな子。まどのすきまから、いっしょに、うたってくれたの。』
ティノだ。アリスと目が合った。
『ずっと、うたっていたの。20年。ずっと、ずっと。だれも、きこえないふりをするの。みんな、みんな、じょうずに、きこえないふりをするの。だからわたし、じぶんの声が、ほんとうはもう、鳴っていないんじゃないかって……。』
「鳴っています。」
思ったより強い声が出た。
「都まで、届いてました。……あなたの歌を聞いて、泣いてる人間を、俺は何人も見ました。」
『……そう。……そう……。』
靄は、しばらく言葉を失っていた。月光の中で、声のない嗚咽のようなものが、空気を細かく震わせていた。フルールが胸元を強く掴んでいるのが、視界の端に見えた。
声のまわりだけ、夜気がわずかに暖かかった。息のない存在のはずなのに、声が近づくと、耳ではなく首筋のあたりが先にそれを感じる。生きている、と体のほうが先に判定を下していて、頭がそれを訂正できずにいた。
『ねぇ、旅のひと。おねがいが、あるの。』
やがて、声は、囁くように近くなった。
『わたしの歌を、最後まで、聞いてほしいの。とても、とても、長い歌なの。最後まで聞いてくれたひとは、まだ、ひとりもいないの。』
「最後まで聞いたら……あなたは、どうなるんですか。」
『……わからない。』
声は、正直だった。
『でも、いいの。歌は、聞いてもらえたら、おわれるの。おわれない歌だけが、いつまでも、のこるの。……わたしは、もう、おわりたいの。ちゃんと、さいごまで、うたって——』
その時だった。
観測点で、がん、と金属音が鳴った。兵の一人が、極度の緊張に耐えかねて、音撃筒の台座に角灯をぶつけたのだ。途端に「声のひと」の輪郭が乱れた。靄が散り、月光が素通りになり——最後に、一言だけが、風に残った。
『……また、くるわ。』
歌は絶え、杜松の葉擦れだけが後に残った。
悠仁が振り返ると、縄の向こうで、兵たちの半分が音撃筒を抱えたまま、声もなく泣いていた。ロヴェルトは目元を隠すように空を仰いでいて、号令は、最後まで出なかった。
帰り道、誰も口をきかなかった。縄を出るとき、フルールが一度だけ振り返った。月光の溜まりにはもう何もなく、それでも彼女はしばらくそこを見ていた。天幕に戻ってからも、耳の奥で歌の切れ端が鳴りやまなかった。『また、くるわ』の一言は脅しにも約束にも聞こえて、悠仁は約束のほうを信じることに決めた。




