杜松の木
――ジュネプロ村 古木の斜面
昼のうちに、悠仁達は古木を検分することにした。
斜面の小道を登っていくと、木は近づくほどに大きくなった。いや、大きくなるという言い方では足りない。ある距離を越えたところで、それは「木」であることをやめ、「主」になった。幹回りは大人が6人で手を繋いでも足りるまい。枝は空の半分を覆い、青黒い実が鈴なりに実って、風が渡るたびに枝葉の海がざわりと鳴った。
小道そのものが、村人の敬意の形をしていた。踏み固められた道は木のずっと手前で自然に途切れ、そこから先は草の丈が長い。実の収穫の時でさえ、村人は根元までは入らないのだろう。長い年月、人がある線から先へ進まなかったことが、草の丈ひとつで知れた。フェリスはその線の手前でひとりでに足を止め、それ以上は進まなかった。怖がる様子はなく、ただ座って、枝々の高いところを長いこと見上げていた。尻尾だけが、ゆっくりと一定の拍子で揺れていた。
「……すごい。」
フルールが、幹に手のひらをかざした。触れる寸前で止めたのは、敬意なのか、用心なのか。
「マナの流れが……すごく、変です。濃いんです。この木の周りだけ、渦を巻くくらい。でも……澱んでない。こんなに濃いのに、澄んでる。悪いものの気配は、ないです。むしろ……。」
「むしろ?」
「……大事に、使われてる感じが、します。誰かが、少しずつ、少しずつ、大切に汲んで使ってるみたいな。」
井戸みたいですね、とフルールは言った。村の真ん中の井戸と同じだ。涸らさないように、毎日少しずつ汲む。そういう使われ方をしたマナの井戸が、この古木の根元にあるらしかった。
根元の一角には、討伐隊が杭を打ち、縄を張っていた。夜間の観測点だという。踏み荒らされた草と、置きっぱなしの角灯と、地面に並べられた音撃筒の照準用の白い石標。神域のような木の根元に、戦争の準備だけが場違いに散らばっていた。
「ロヴェルトさん。討伐命令の中身を、正確に教えてもらえますか。」
同行してきた若い騎士は、少し迷ってから、暗唱した。
「……『声状の存在の消滅を確認するまで、音撃を継続せよ』。以上です。」
「あの筒で、歌を掻き消し続ける。それで消滅するんですか?」
「分かりません。検閲局の技師によれば、あれは『音でできた存在』であるから、音を潰し続ければ存在を保てなくなる、はずだと。」
「はず、ですか。」
「はず、です。」
ロヴェルトは、その言葉の頼りなさを隠さなかった。隠さないことが、この若い騎士なりの誠実さなのだろう。
「……もし、潰しても潰しても、歌い続けたら?」
その問いに、ロヴェルトは答えなかった。答えの代わりに、彼は縄の外から古木を見上げてぽつりと誰にともなく言った。
「……私の祖母は、昔、子守唄を歌ってくれました。」
風が、枝葉の海を鳴らした。
「私が7つの時に、法ができて……祖母は歌うのをやめました。それきり、一度も。亡くなる前の晩も、私の手を握って、口を、こう、少し開けて……でも、何も出てきませんでした。20年やめていると、出なくなるんだそうです、歌というのは。」
「……ロヴェルトさん。」
「初めて夜の歌を聞いた時、私は、祖母の声を思い出して泣きました。」
若い騎士は、古木から目を離さなかった。
「似ても似つかない声なのに、です。……兵たちも、多分、同じなんです。あれを聞くと、みんな、誰かの声を思い出す。歌をやめた母親や、婆さまや……自分が子どもの頃、最後に聞いた誰かの声を。それで、泣くんです。」
だから士気がもたない。恐怖では、ないのだ。
この国の30人の兵は毎晩、20年前に取り上げられたものの記憶を突きつけられて、そのたびに声を殺して泣き、朝には何もなかった顔をする。それを、ひと月。
悠仁は、縄の内に並ぶ白い石標を眺めた。三十人の兵の一人ずつに、歌をやめた誰かがいる。この国で兵を集めるというのは、そういう記憶ごと連れてくるということだ。命令書は音撃筒の照準を書けても、砲の後ろに立つ人間が何を思い出すかまでは、書けない。
「……正直に言っていいですか、ロヴェルトさん。」
「どうぞ。」
「この討伐、嫌な仕事ですね。」
ロヴェルトは一瞬だけ目を見開いて——それから、この国に来て初めて見る種類の率直な苦笑いをした。
「……ええ。極めて。」




