山際の村
――ジュネプロ村
峠の上で雨をやり過ごした、その翌朝。一行は最後の坂を下りた。街道が山にぶつかって細い村道に変わる、その先に——ジュネプロ村はあった。
思えば、道は登るほどに匂いが変わっていた。昨日の昼を過ぎた頃から風に青い針のような香りが混じり始め、幌の中の空気まで澄んでいく気がした。
その昨日の午後、道は一度、妙な土地を横切った。畑の連なりの中に、幅百歩ほどの帯が一本、黒く光って伸びている。石畳でも岩盤でもない。鏡のように空を映す、なめらかな黒。畑はその帯の手前できっちり終わり、向こう側からまた始まっていた。
(……テクスチャの継ぎ目? にしては、境目が綺麗すぎるな。畑の側が、避けてる。……なんなんだろうな、これ。)
荷馬は、帯を踏む手前で自分から迂回した。誰も、手綱を引いていなかった。
村道の両脇には収穫籠が伏せて重ねられ、石垣の上には干し網が並んでいたが、網の上の実は乾きすぎて、幾日も取り込まれていないのが素人目にも分かった。実りの世話をやめた村は、遠目の姿より先にこういう所から具合が知れる。
山裾の斜面に張り付くような、小さな村だった。段々畑が斜面を刻み、石積みの家が寄り添い、村の真ん中に古い井戸がある。人口は百人に届くまい。大陸のどこにでもある、つつましい山村——のはずだった。
「……村が、閉じてますね。」
アリスの言う通りだった。昼だというのに、家々の鎧戸が半分閉てられている。畑に人影はまばらで、その誰もが、時折手を止めては山の方を見る。子どもの姿が、外にひとつもない。
広場の隅に、石蹴りの升目が白墨で引かれたまま残っていた。雨に半分洗われ、升の中に蹴り石が三つ置き去りになっている。都の路地で見た、あの声のない遊びの跡だった。遊びかけのまま仕舞われた升目は、空き家より雄弁に村の夜を語る。アリスがそれに目を留めて、何も言わずに視線を外した。
そして、村の外れ。山へ続く斜面の中腹に、一本の木が立っていた。
遠目にも分かった。あれだけ、周りの木々と格が違う。
「杜松……ですね。それにしても、大きい……。」
フルールが目を細めた。青黒い葉を密にまとった巨木が、斜面の上から村を見下ろすように立っている。樹齢は何百年になるのか。枝ぶりは老いてなお盛んで、風が渡るたび、葉擦れの音がここまで届いた。
「あれが依頼書の『古木』か。」
「……マナが、すごいです。ここからでも分かります。あの木の周り、渦を巻いてます。」
村の広場には、国章の入った天幕が張られていた。討伐隊——兵はおよそ30。物々しい装備の中に、見慣れないものが並んでいる。荷車に据えられた、口径の大きな金属の筒。砲身に細かい紋様が刻まれ、根元に魔石の据わった台座が付いている。それが、6門。
「……なんだ、ありゃ。大砲か?」
「……音を、撃つ道具。」
ステラが小声で言った。
「多分だけど。魔導工学の国だから……音を、音でぶつけて、消す。逆位相っていう理屈のはず。……本で、読んだことだけ、ある。」
歌を斬るための兵器。それが理屈の上の話ではなく、鉄と魔石の形をして、目の前に6門並んでいる。悠仁は、この国の「静けさ」の維持費というものを、初めて目で見た気がした。
天幕のあいだを歩くと、兵たちの手がみなそれぞれに何かを拭いていた。砲身を、革帯を、すでに光っている兜を。手を止めると夜のことを考えてしまう者の手つきだった。焚き場の脇には蝋を小さく丸めたものが皿に盛られ、兵が通りすがりに一つずつ摘んでいく。耳に詰めるためのものだと気づくのに少しかかった。歌から身を守る支度が、菓子鉢のような顔をして置いてある。
挨拶に現れた討伐隊の隊長は、若い騎士だった。年の頃は悠仁と同じか、少し下か。礼儀正しく、折り目正しく、明らかに疲れていた。
「討伐隊を預かります、騎士ロヴェルトです。冒険者の同行、感謝します。……正直に申し上げて、助かります。兵たちの士気が、その……もちません。」
「相手が相手、ですからね。得体が知れない。」
「いえ。」
若い騎士は、少し躊躇ってから、意を決したように言った。
「怖がっているのでは、ないのです。……夜にあれを聞くと、兵たちは、泣くんです。」
「……泣く?」
「理由も分からず、です。屈強な古参兵がです。持ち場で、声を殺して泣くのです。翌朝には皆、何もなかった顔をします。この国の人間ですから。ですが……ひと月、毎晩それが続いて、皆、すり減りました。」
ロヴェルトは、斜面の古木を見上げた。その目には任務への使命感と、それとまったく相容れない何かが同居していた。
「冒険者殿。私は、あれが何なのか、知りません。知ろうとすることは、私の立場では許されていません。ですが……あなた方は、外国の方だ。」
若い騎士は、そこで言葉を選んだ。長い時間をかけて、この国の人間としてぎりぎり言える形を探して。
「……あなた方の耳には、あれが、どう聞こえるのか。いつか、聞かせていただけたらと思います。」
その日の暮れ方、村には鐘がなかった。代わりに家々の鎧戸が申し合わせたような頃合いで閉まり、灯は戸の内に籠って、村はゆっくりと目を閉じた。斜面の杜松だけが、暮れ残りの空を背に黒々と立っていた。風が渡るたび、葉擦れは息のように聞こえた。長く深い、誰かの寝入りばなの息のように。
音撃筒(魔導具)
コレスタニア魔導工学の粋を集めた対音兵装。増幅した魔導音波を投射し、対象の音を相殺・破壊する。本来は攻城戦における敵側の指揮伝達の妨害を目的に開発されたが、実戦投入の記録はほとんどない。砲としての破壊力は持たないが、至近で直撃を受ければ人間の聴覚は永久に失われるとされる。




