杜松への道
――カンタヴィア=ジュネプロ街道 山道
国章の入った依頼書は、ステラの帳面の間に挟まれて、一行の荷のどこよりも重い場所を占めていた。
カンタヴィアを出て半日、道は葡萄畑を抜け、石垣の段々を抜け、やがて山の肩へ取りついた。声の小さい国は、山道までもが静かだった。すれ違う人は目礼だけで通り過ぎ、荷馬の鈴には布が巻いてある。鳥の声と、風が杜松の茂みを渡る音だけが、この道の持ち主だった。
行き交いの少ない道ほど、道端の石積みは丁寧に直されていた。通る者が少ないなら、通る者が直すしかないからだ。山の国の道は、そういう理屈でできていた。馬車の車軸の音さえ、布巻きの鈴と同じ遠慮を覚えたように低かった。
「っとあぶねぇ。」
先頭のカインが、つんのめるように足を止めた。道の真ん中が、帯になって波打っている。固まった土が、何かに噛みつこうとした口の形のまま固まったような——幅は狭いが、車輪なら確実に取られるうねりだった。
「こんなところにくぼみがあるなんて、トラップかよ。……道の管理、そこだけ手ぇ抜くなよな。」
カインは荷馬の手綱を引いて波打ちを迂回させ、それきり忘れた。石積みは丁寧に直すこの国の道で、そこだけが、直されずに残っていた。
「……なぁ。ずっと気になってたんだが。」
九十九折の三つ目でカインが口を開いた。この男の沈黙は半日が限度である。
「国章ってのは、そんなに偉いのか。組合の受付の姉ちゃん、依頼書を渡す時、手が震えてたぞ。」
「偉いというより、断れないんです。」
アリスが荷を揺すり上げながら答えた。
「国章の依頼は、王宮がその結果に責任を持つという印です。報酬は良い。けれど失敗すれば、冒険者ではなく国の記録に失敗と残る。……受けた側の名前も、一緒に。」
「要するに、いつもの流れね。」
ミーナが半眼で言った。
「調べてみたら依頼書に書いてないものが埋まってて、斬る前に考えることが山ほど出てくるやつ。うちの隊、そういうのを引く天才が一人いるから。」
「……悪かったな。」
悠仁は言い返しながら、実のところ同じことを考えていた。依頼書の文面は簡潔だった。対象、ジュネプロ村近郊に出没する「声状の存在」。等級、不明。……声状の存在、という言葉の据わりの悪さが、かえって引っかかる。名前を付けられないものが山際の村で待っている。
道の途中、荷車が一台、石に嵌まって傾いでいた。
炭俵を積んだ小さな荷車で、押しているのは老夫婦だった。二人とも声を出さない。夫が車輪を睨み、妻が石を睨み、それだけで会話が済んでいるらしかった。
カインが黙って車輪の下に肩を入れ、持ち上げた。荷車ごと、である。老夫婦は目を丸くして、それから深々と頭を下げ、炭俵の間から小さな革袋を差し出した。
中身は、青黒い小さな実だった。
「……木の実?」
「杜松の実です。」
アリスが一粒つまんで教えた。
「山の人は、これを噛みながら歩くんです。香りが強くて、口寂しさが紛れる。……この国では、その、」
彼女は少し言いにくそうに続けた。
「歌えませんから。坂がきつい時に歌う代わりの何かが、要るんだと思います。」
一行は一粒ずつ口に入れた。噛むと、松脂と柑橘の間のような、鋭く澄んだ香りが鼻へ抜けた。カインは三粒まとめて放り込んでむせた。老夫婦は声を立てずに、肩だけ揺らして笑った。
「……なるほどな。」
悠仁は実を噛みながら、前を行く老夫婦の背中を見た。歌の代わりに実を噛む国。禁じられたものの隣には、いつも、こういう小さな工夫が生えている。人はそう簡単に、空っぽのままではいないのだ。
日が傾く頃、道の先で岩燕の群れが低く飛び始めた。
「――今夜、崩れるね。」
先を行く炭焼きの妻が、その日はじめて声を出した。囁きほどの声だった。岩燕が低いと山は雨、と。実際、尾根の向こうの空は色を変え始めていた。
「村まで、あとどれくらいですか。」
「峠ひとつ。……あんたたち、あの村へ行くのかい。」
老夫婦は一度目を見交わし、それ以上は何も言わなかった。ただ、別れ際に革袋ごと杜松の実を押しつけて、来た道とは別の脇道へ、荷車を押して消えていった。
峠の上から、山際の村が見えた。
夕暮れの底に、家々の明かりが十ほど。その背後の斜面に、ひときわ黒く、大きく――一本の木が立っていた。距離があるのに、大きさが分かった。距離があるのに、そちらを見た瞬間、六人の誰もが、口の中の実を噛むのをやめていた。
「……あれか。」
誰にともなくカインが言い、誰も答えなかった。
雨の最初の一粒が、悠仁の頬に当たった。




