検閲卿
――カンタヴィア 検閲局
謁見の返答は、8日目に来た。ただし王宮からではなく、検閲局からだった。
宿に届いた書面は一枚きり。上質な紙に、定規で引いたような字が並んでいた。
『謁見伺いの審査に際し、申請者への聴取を行う。明日正午、代表者1名、検閲局へ出頭されたし。』
「聴取、ですか……。なんだか、呼び出しみたいですね。」
「みたい、じゃなくて呼び出しだろうな。」
翌日、悠仁は一人で検閲局に向かった。宿を出る前に、カインが無言で悠仁の襟を直した。飯屋の親父が倅を面接に出すような手つきで二度引いて、それで終いだった。誰も「気をつけろ」とは言わなかった。言えば余計に重くなると、全員が知っていたからだ。アリスだけが戸口で小さく手を組み、短く何かを祈った。どの流派の型なのかは分からなかったが、ありがたかった。
検閲局は王宮の隣に建つ、窓の少ない白い建物だった。中に入ると、書類とインクの匂いがした。廊下は長く、足音はカーペットに吸われ、すれ違う官吏たちは皆、抱えた書類の角を揃えて歩いていた。
最初に通されたのは控えの間だった。椅子が二脚と飾りのない白い壁があるきりで、置き時計の振り子の音だけが等間隔に落ちている。悠仁は待つあいだ、この十日の自分たちの行動を頭の中で二度さらった。やましいことはしていない。ただ「言えないこと」なら両手に余るほどあった。やましさと言えなさが別の物差しで測られる国に、自分はいま座っている。振り子が一つ鳴るたび、その区別が少しずつ心細くなった。
やがて通された部屋は、応接室というより執務室だった。壁の三面が書架。窓は一つ。そしてその窓を背に、三十半ばと思しき女性が座っていた。歳のわりに、ひどく老けて見える顔だった。
背筋の、まっすぐな人だった。
灰青の官服に、銀髪をきつく結い上げ、装飾は襟元の小さな石が一つきり。机の上には悠仁の提出した書類一式が、まるで測って置いたように整然と並んでいる。
書架の本には、背表紙に題のないものが多かった。灰色の無地の装丁で厚みも高さも揃えられ、小口には細い紙の栞が何枚も差さっている。題を持たない本がこれほど並ぶ書架を、悠仁は初めて見た。読むための本ではなく、読まれたことを覚えておくための本なのかもしれなかった。
「検閲卿を務めます。ルーチェと申します。——公的な場ですので、面倒ではありますが、ドンナルーチェとお呼びください。」
声は静かで、丁寧で——温度が、なかった。
「おかけください、冒険者Yuji。」
「失礼します。」
悠仁が座ると、ドンナルーチェは書類の一番上を手に取った。
「ワイバーン2頭の討伐。ウェイル領主の全面的な信任。カースゼス領主の連名。セダ領主の署名。会わずして与えられたゼットフォード領主の署名。」
一枚ずつ、確認するように読み上げていく。
「……よく集めたものです。大陸の北半分が、貴方がたの後ろにいる。」
「恐縮です。」
「ハーダリアの非道を止めたい。人体を魔法の触媒とする禁忌を糾弾したい。……その大義に、当国として異存はありません。」
「では——。」
「ですが。」
ドンナルーチェは書類を置いた。それから、置いた書類の角を、指先でまっすぐに直した。その仕草ひとつで、部屋の空気が変わった。
「貴方がたは10日前の入市以来、夜間に2度、宿の屋根に上がっていますね。」
心臓を、冷たい指でそっと撫でられた気がした。
「一度目は貴方と、くノ一装束の女性。二度目は貴方と、カーディナルの少女。市場では3名の住人に『夜、何か聞こえないか』という趣旨の質問をしている。西門外では巡礼団に接触。……順調な滞在のようで、何よりです。」
頭の中で、誰かが帳簿をめくる音がした。屋根の夜も市場の三人も西門の巡礼団も、全部が事実だった。数え上げられた事実は、こちらに言い分の差し挟みようがないぶん、脅しよりよほど効いた。嘘の余地を最初に潰しておくのがこの面談の作法なのだと、遅れて理解した。
「……見張られていたとは、気づきませんでした。」
「見張る、という言葉は当たりません。」
ドンナルーチェは眉一つ動かさなかった。
「この都では、皆が、よく見て、よく聞いています。私のもとには、それが集まってくるだけのこと。……貴方がたが夜に何を『聞いた』つもりでいるのかは、問いません。それを問うのは、私の職分ではないので。」
「……では、検閲卿の職分とは。」
「この国の静けさを守ることです。」
即答だった。用意された答えではなく、体に染みついた答えの速さだった。
そこで初めて、ドンナルーチェは書類から目を上げて、悠仁をまっすぐに見た。
冷たい目だと思っていた。違った。それが意外だった。疲れて、深くて、底の方で何かをずっとずっと堪え続けている人の目だった。悠仁はこの目をどこかで見たことがある気がして、すぐに思い当たった。戦場から帰った兵士が、たまにこういう目をしている。
「冒険者Yuji。ひとつだけ、申し上げておきます。」
「はい。」
「この国の静けさを、貴方がたの物差しで測らないでいただきたい。」
声は、静かなままだった。静かなまま、一語一語が重くなった。
「騒がしい国から来た者は皆、この国を憐れみます。歌えない国。言えない国。かわいそうな国。……この静けさが、何を防いでいるのか。貴方がたは知らない。知らないままでいられることが、どれほど幸福なことかも。」
「……何を、防いでいるんですか。」
「謁見伺いは、受理します。」
質問は、綺麗に、跡形もなく無視された。
「王のご判断は、いずれ書面で通知されます。それまでの間——どうか、良い旅行者でいてください。」
それは面談の終わりの合図であり、同時に、この上なく丁寧な警告だった。悠仁は立ち上がり、一礼して、ドアへ向かった。
ドアノブに手をかけたところで、一度だけ振り返った。
ドンナルーチェは既に次の書類に目を落としていた。窓からの光が、結い上げた銀髪の生え際を照らしている。その横顔は検閲卿ではなく、ただの、ひどく疲れた一人の女の人に見えた。机の上の書類の山は、彼女が今日中に読む「王に届く前の言葉」の山なのだろう。
この人は、いつから、他人の言葉を先に読む人生を送っているのだろう。
そんなことを思ってしまったのが、悠仁の、検閲卿ドンナルーチェに対する第一印象の結びだった。
検閲局を出ると、白い日差しが目を刺した。市場の方から木札の触れ合う音が薄く届いて、それがこの都の賑わいの全部だった。あの部屋の静けさに比べれば、通りの静けさは賑やかとさえ言えた。宿までの道を、悠仁はいつもより一本遠回りして帰った。歩きながら、皆に伝えることと胸に置いておくことを選り分ける。監視の件は伝える。怯えさせても、知らないよりいい。ただ「静けさが何を防いでいるのか」の一語だけは、選り分けの籠のどちらにも収まらず、宿に着くまで手の中に残り続けた。
検閲局(機関)
静謐法の運用を司るコレスタニアの中枢機関。書物・掲示・興行から王宮に届く書面に至るまで、国内の「公の言葉」の全てを審査する。長は検閲卿。国政における序列は宰相に次ぐとされるが、実際の影響力はそれ以上と噂される。現任の検閲卿ドンナルーチェは平民出身で、女官から異例の昇進を遂げた人物。就任以来、静謐法の運用は「より穏当に、より隙なく」なったと評される。
退出の間際、係官がもう一つ、と手を出した。プレイヤーカードだった。身分の証明としてこの札を検められるのは、ずいぶん久しぶりだ。係官は名と職と数字の欄を書き写し、「三十六」とだけ小さく読み上げて、こちらの顔と見比べた。数字で人を測る国は珍しくないが、数字を黙って書き写す国は、初めてだった。




