祈りの手
――カンタヴィア 西門外
謁見の返答待ち、5日目。
都の外周を歩いて土地勘を作るのが、その日の目的だった。城壁沿いの道、門の配置、緊急時の馬車の出し入れ。こういう下調べは、結局のところ何も起きなければ無駄になる。無駄になるのが一番いい、と思いながらやる仕事だ。
北寄りの壁の中ほどに、古い疵があった。人の背の三倍はある高さから、袈裟がけに一本。疵の底にだけ、焦げの色が残っている。
(……すごいな。壁の傷まで、こんなに手が込んでるのか。攻城戦の履歴でも設定してあるんだろうな。このリアルさ、どうかしてる。)
悠仁は足を止めて二秒だけ感心し、それから門の配置の勘定に戻った。
西門の外で、それを見つけた。
門外の草地に、粗末な天幕がいくつか張られていた。見覚えのある一団だ。20人ほど——チェルヴァルテの丘で、影返しの夜を共にした、あの灰色の外套たち。峠の塚参りを終えて、都の塚へ降りてきたのだ。老人も、女も、子どももいる。武装はほとんど見当たらない。天幕の輪の真ん中に、白い石を積んだだけの小さな塚があって、一団はその周りに輪になって座っていた。
「……何、してるんでしょう?」
「祈ってる……のか?」
輪の中の誰も、声を出していなかった。
代わりに、全員が手を動かしていた。指を組み、開き、胸に当て、掌を空へ向ける。ゆっくりとした、流れるような手の動き。20人の手が揃って、寄せては返す波のように同じ形を描いていく。声はない。なのにそれは、どこからどう見ても、祈りだった。
夕陽が傾いて、20人の手の影が草地に長く伸びていた。影までもが、揃って動く。手つきの揃い方は稽古のそれではなく、季節の揃い方だった。何百回の朝と晩を、同じ祈りで重ねてきた者たちの、体に染みた同じ形。風が天幕の裾を鳴らす音と、草の擦れる音だけが、祈りの伴奏だった。
「手話……とも、少し違いますね。もっと、こう……踊りに近いような。」
「祈りだよ、ありゃ。」
いつの間にか隣に、都の老人が立っていた。散歩の途中らしく、杖に両手を重ねて、懐かしいものを見る目で一団を眺めている。
「『暁の巡礼団』。……あんたら、旅の人だろう。初めて見るかね。」
「はい。あの、あれは一体……。」
「大陸中の、弔われなかった死者を弔って回ってる連中さ。戦場の跡、流行り病の村、名前も分からん行き倒れの墓。ああやって、声を使わずに祈る。」
「声を、使わずに。」
「あの祈りの型はな、あの子が作ったんだと。」
老人が顎で示した先——輪の中心、塚のいちばん近くに、12、3歳の少年が座っていた。
細い体に、着古した外套。夜明け色というのだろうか、灰色に一刷毛だけ朱の入った、不思議な色の外套だった。少年の手の動きだけが他の誰よりも滑らかで迷いがなく、まるで手のひらから言葉がこぼれ落ちていくようだった。
「生まれつき、声の出ない子でな。リロっていうんだと。あの子の『手の祈り』を、団の連中がみんなで覚えた。今じゃあれが、あの団の祈りの言葉さ。……いいもんだろう。」
老人は目を細めた。
「声がなくてもな、祈りってのは、ちゃんと祈りの形をしてるんだ。」
「……この国は、あれを止めないんですね。」
悠仁が言うと、老人は初めてこちらをちゃんと見た。皺の奥の目が、ほんの少しだけ、試すような色を帯びた。
「歌じゃないからな。」
それだけ言って、老人は杖を鳴らさずに去っていった。歌じゃないから、許される。その一言は、答えのようでいて、この国のいちばん深い場所を指差してもいた。声を奪われた少年の祈りが合法で、声を持つ者の歌が違法である国。
「……ねぇ、あの塚って。」
ミーナが小声で言った。
「誰のお墓か、書いてないわよね。」
言われてみれば、白い石の塚には銘も花もなかった。ただ積まれた石だけ。この場所に、弔われるべき「誰か」がいる——巡礼団はそれを知っていて、国は多分、それを知らないことにしている。
ミーナは斥候の目で、塚をもう少しだけ読んだ。石の積み方には年季の差があった。下の段の石は苔が回り、雨に洗われて角が丸い。上の段は、今日積まれたばかりの白さだった。つまりこの塚は、一度きりの弔いではない。誰かが何年も、ここへ通っては、一段ずつ積み増している。祈る相手の名を書けないまま、石の高さだけが、弔いの回数を数えていた。
帰り際、少年リロがふとこちらに気づいて、顔を上げた。
薄茶色の、静かな目だった。少年は悠仁達を順にゆっくり見て——それから、両手を胸の前で小さく組み、ほどくように、こちらへ向かって開いてみせた。蕾が咲くような手つきだった。
意味は分からなかった。分からなかったが、気づけば一行は全員、揃って会釈を返していた。
「……あれ、なんて言ったんでしょうね。」
歩き出してから、アリスが囁いた。答えたのはフルールだった。
「多分ですけど……『よい旅を』、です。」
「わかるのか?」
「なんとなく、です。」
フルールは少し困ったように笑った。
「手から、マナがこぼれてたんです。綺麗な色の。……悪意って、マナに混ざると分かるんですよ。あの子の手には、それが一欠片もなかった。だから、いい言葉に決まってます。」
西門の白い壁を背に、声のない祈りの輪は、夕暮れまで続いていた。
暁の巡礼団
大陸各地を巡り、弔い手のない死者を弔って歩く小規模なクラン。戦場跡・災害跡・無縁墓を訪ね、独自の「声を使わない祈り」を捧げる。武装をほとんど持たず、各地の温情と喜捨によって旅を続けている。祈りの型は団の少年リロが考案したとされ、声を発しないため、歌唱・朗唱を規制する国でも活動を妨げられることがない。団の名は「夜通しの弔いを終えて暁に発つ」ことに由来するという。




