夜の歌②
――翌日 宿「白鳩亭」 朝食の席
「歌ぁ?」
翌朝、屋根の上の話を共有すると、反応は綺麗に割れた。
カインは疑わしげに眉を寄せ、アリスとフルールは真顔になり、ステラは湯気の立つカップを持ったまま、黙って考え込んだ。
「風の音って線はねぇのか?ほら、あれだ、丘の笛ってやつ。」
「私も最初はそう思ったわよ。でも違う。あれは喉。喉から出てる音よ。ハンター舐めないで。」
「舐めちゃいねぇけどよ……。」
「……フルールは、どう思う?」
悠仁が水を向けると、フルールはスプーンを置いた。少し長い間があった。それから、観念したように、正直に言った。
「……街道の夜に、私が『風の音でした』って言ったの、覚えてますか。」
「あぁ。」
「あれ、嘘です。ごめんなさい。……あの時から、聞こえてました。」
「……なんで黙ってた?」
責める調子にならないよう気をつけたつもりだったが、フルールは少し首をすくめた。
「この国で『聞こえた』って言うのが、どういうことか……国境からずっと見てきて、なんとなく、分かってしまったから。皆さんを、面倒に巻き込む言葉のような気がして。」
「巻き込まれるのは慣れてるっての。」
カインが茶化して、場が少しほどけた。フルールは小さく笑って、それから真顔に戻った。
「……ただ、これだけは言わせてください。あの声、人間のマナじゃありません。かといってモンスターでもない。あんなの、私、初めてです。」
言い終えたフルールの手が、卓の下で小さく握られているのに、向かいのカインだけが気づいていた。カインは何も言わず、席を立って、フルールのカップに茶のお代わりを注いだ。湯気がひとすじ立って、握られていた手が、カップを包む形にほどけた。それだけのことだった。それだけのことを、この男は誰よりも上手くやる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
――同日 カンタヴィア市街
その日、悠仁は市場で探りを入れてみることにした。真正面から聞けば、この国では答えが返らないどころか、聞いたこと自体が悪目立ちする。だから、世間話のついでを装った。夜も静かでよく眠れる宿を探していまして。夜、何か聞こえたりは。
八百屋の老人は、にこやかに答えた。
「この都の夜は、大陸一静かですよ。」
パン屋の女将は、にこやかに答えた。
「夜ですか?何も。ええ、何も。」
三人目に聞いた花屋の娘は——一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、目を伏せた。石畳の一点を見て、まるでそこに何かが落ちているかのように。それから顔を上げて、にこやかに答えた。
「……何も聞こえません。何も。」
二度繰り返された「何も」。それが誰の耳に向けた言葉なのか、悠仁にはもう分かってしまった。娘は悠仁に答えたのではない。往来に、隣の店に、通りの誰にともなく「私は聞こえていません」と申告したのだ。
(この国の会話には、いつも三人目がいるんだな。)
自分と、相手と——聞いているかもしれない、誰か。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
――同日 深夜 宿の屋根
その夜、悠仁は一人で屋根に上がるつもりだった。
昨夜の歌をもう一度、今度は落ち着いて聞きたかった。旋律、方角、距離。分かることを全部拾っておきたかった。梯子に手をかけたところで、背後の暗がりから小さな声がした。
「……私も、行きます。」
アリスだった。上着を羽織って、月明かりの廊下に立っていた。起きて待っていたのだろう、目に眠気の欠片もなかった。
「危ないぞ。夜の屋根は冷えるし、それに……これはこの国じゃ多分、行儀のいいことじゃない。」
「知ってます。」
アリスはまっすぐに悠仁を見上げた。
「聞こえないフリは、しません。私は。」
その言い方に、悠仁は既視感があった。いつかの夜、いつかの窓辺。……そうだ、カシュカントで、フルールが眠り続けていた頃。「気づかないフリはダメですよ」と、この子は悠仁の弱音を引きずり出したのだった。この子はいつも、フリというものをしない。この国に一番向いていない性格かもしれなかった。
「……冷えるから、これ着てけ。」
悠仁は自分の外套を渡した。それが答えだった。
屋根の上で、二人で歌を待った。風向きが変わるまでの長い時間、二人とも何も話さなかった。話さなくても平気になったのはいつからだろう、と悠仁はぼんやり考えた。船の上で「沈黙はもう、辛くなかった」と思ったあの夜より、さらに少し、沈黙は柔らかくなっている。
待っている間に、アリスが懐から布包みを出した。中身は、竈で温めてきたらしい丸い石と、飴がふた粒。石は外套のポケットにひとつずつ、飴は口にひとつずつ。準備のいいことに呆れて笑いかけて、この人は最初から、長く待つつもりで上がってきたのだと気づいた。飴は蜂蜜の味で、静かな夜に、歯に当てないよう転がしていると、体の内側の音がまたひとつ増えた。
やがて、風が変わり——歌が、来た。
昨夜より少しだけ、はっきりと。女の声。悲しくて、優しくて、どこか呼んでいるような。アリスは膝の上で両手を重ね、目を閉じて、一音も逃すまいとするように聞いていた。
歌が風と一緒に途切れた時、アリスの睫毛が濡れているのに悠仁は気づいた。何も言わなかった。言わない方がいい涙も、あることを知っている歳ではあった。
「……綺麗な歌、でしたね。」
「あぁ。」
「誰なんでしょうね。」
アリスは濡れた睫毛のまま、南の闇を見つめた。
「あんなに綺麗な歌をうたうのに……誰にも、聞いてもらえない人って。」
誰、と。
化け物でも、怪異でも、現象でもなく。アリスが当たり前のようにそれを「誰か」と呼んだこと。それが悠仁の中で、この件の呼び名を決めてしまった。以来、悠仁は心の中で、あの歌の主のことを「何か」とは呼ばなくなった。




