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夜の歌①

――カンタヴィア滞在3日目 深夜


とん、とん。


悠仁は、部屋の戸を叩く小さな音で目を覚ました。枕元の短杖を掴んでから、戸の外の気配が敵意のないものであることに気づく。旅暮らしで染みついた反射だった。


戸を開けると、廊下の暗がりにミーナが立っていた。夜着の上に外套を引っかけて、履き物は音のしない足袋。そして、真剣な顔をしていた。ミーナがこの顔をするのは、戦闘の直前か、よほどのことがあった時だけだ。


「……どうした。」


「起こしてごめん。……屋根、上がれる?ちょっと、確かめたいことがあるの。」


「確かめたいこと?」


「私の耳が正しいかどうか。」


宿の屋根は、緩い勾配の石葺きだった。ミーナが先に音もなく上がり、悠仁が続く。夜風は思ったより強く、外套の裾がはためいた。月は細く、白い都は足元に灰色に沈んでいる。灯り一つない。物音一つない。


石葺きの冷たさが、座った足袋の裏からじわりと上がってくる。昼の白い都は、月の下では骨の色をしていた。屋根の稜線がどこまでも重なって、その全部が同じ角度で月光を返している。ミーナの吐く息だけが白く、流れて、消えた。


ミーナは南の方角を向いて座り、目を閉じた。


「……ここ2日、夜中に目が覚めるのよ。理由が分からなくて。ハンターの耳って、寝てても『おかしい音』を拾うと起きるようにできてるの。でも起きても、何も聞こえない。だから気のせいだと思ってた。」


「思ってた。過去形か。」


「昨日の夜、分かったの。風向きなのよ。……来る。」


風が、変わった。


南からの風が屋根を渡り、悠仁の前髪を持ち上げた。そして、その風の奥に——


——歌が、あった。


遠い。とても遠い。旋律の輪郭がやっと分かる程度の、糸のように細い声。女の声のようだった。言葉までは聞き取れない。ただ、上がって、下がって、細く震えて、囁くように低くなる。風の音ではない。丘の笛でもない。あれは喉だ。誰かの喉が、夜のどこかで、確かに歌っている。


「……聞こえるわよね?ね?私だけじゃないわよね?」


「……聞こえる。」


自分の声が掠れているのが分かった。


歌そのものは、怖いものではなかった。むしろ、綺麗な歌だった。悲しくて、優しくて、ずっと聞いていたくなるような歌だった。


怖いのは——この街だった。


これだけの静寂の底だ。この歌は、間違いなく都中に届いている。何千何万の住人の耳に毎晩届いている。


なのに、どの窓も開かない。どの灯りも点かない。犬の一匹も鳴かない。誰も「今の何?」と囁き交わさない。


十万の人間が息を潜める都の上を、たった一つの歌声だけが、誰にも受け取られないまま渡っていく。


「……ねぇ、悠仁。」


ミーナの声が、少しだけ震えていた。夜風のせいではないと思う。


「この街の人たちってさ。毎晩、これを聞いて……毎晩、聞こえなかったことにして、寝てるの?」


「……そういう、ことになるな。」


「なにそれ。」


ミーナは膝を抱えた。くノ一の装束で音もなく屋根を渡る後輩が、その時ばかりは、ただの寒がりの女の子に見えた。


「なにそれ……。」


なにそれ、という三文字ほど、この国に対する正しい批評を、悠仁はまだ聞いたことがなかった。理屈も歴史も知らないまま、後輩は一晩で急所を言い当てている。毎晩聞こえる歌を、毎晩なかったことにする。それを十万人で、二十年。積み上がったものの高さを想像しかけて、悠仁はやめた。夜の屋根の上で想像していい高さではなかった。


風向きが戻り、歌は途切れた。後には元の、耳の痛い静寂だけが残った。二人はしばらく、歌の消えた南の闇を見ていた。


「……戻るか。冷える。」


「ん。……ねぇ、先輩。」


梯子に足をかけたところで、ミーナが後輩の声で言った。


「あの歌ってさ。……誰かに聞いてほしくて、歌ってるように、聞こえなかった?」


悠仁は、すぐには答えられなかった。同じことを感じていたからだ。あの歌は、独り言ではなかった。夜の底から、都の一つ一つの窓に向かって、届くあてもなく差し出され続けている——手紙のような歌だった。


「……明日、みんなに話そう。」


それだけ言って、悠仁は梯子を降りた。

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