書面の国
――カンタヴィア 冒険者統括組合
カンタヴィアの組合は、白い神殿のような建物だった。
そして中は、図書館のように静かだった。依頼の読み上げも、報酬を巡る怒鳴り合いも、酔った冒険者の武勇伝もない。掲示板と、書面と、小声の窓口。それだけで大陸有数の規模の組合が回っている。掲示板の前の冒険者たちは、依頼書を無言で読み、無言で写しを取り、無言で窓口に並んでいた。
依頼書の文面まで、この国の言葉でできていた。討伐、という語がどこにもない。『北の穀倉地帯における静穏の回復』『街道の安全の確保』。ステラが一枚を指でなぞって、報酬額と等級から中身を訳してくれた。これは狼の群れの討伐、こっちは多分、盗賊。言葉を穏当にしても、仕事の中身は他の国と同じだけ血の匂いがする。書き方だけが、綺麗なのだ。掲示板一枚の前で、この国の全部が復習できた。
「なんつーか……調子狂うなぁ。」
カインが首の後ろを掻いた。声はちゃんと小さい。カインの声量調整能力は、この旅で一番成長したものかもしれない。
「王宮への謁見申請ですか。」
受付の女性は、悠仁の差し出した書類の束を検めて、途中で手を止めた。ウェイル領主の身分証明。カースゼス領主の連名。セダ領主の署名と公印。ゼットフォード領主の署名。一枚めくるごとに、彼女の眉が少しずつ上がっていった。
「……これほどの書類は、初めて拝見します。」
「それで、領主様……この国では王ですね。王にお目にかかりたいのですが。」
「当国の謁見は、全て書面審査です。」
受付の女性は、気の毒そうな、しかしきっぱりとした調子で言った。
「どなた様であっても、です。まず『謁見伺い』を提出していただき、審査を経て、認められれば謁見の日時が書面で通知されます。」
「審査には、どのくらい?」
「早くて10日。……それから、これは申し上げておいた方がよいと思いますので。」
女性は少しだけ身を乗り出して、声を一段落とした。
「謁見伺いは、検閲局を経由します。」
「……謁見の申請も、検閲局を通るんですか。」
「王に届く言葉ですから。」
当然のことのように、彼女は言った。王に届く言葉は、まず検閲局が読む。書式に不備があれば戻される。内容が「穏当でない」と判断されれば、戻されることすらなく、ただ返答が来ない。だから代筆屋を使うのが常道なのだと、女性は親切に教えてくれた。この国には「王宮に出す書面の作法」だけで生計を立てる職業があるらしい。
組合を出て、教えられた代筆屋で謁見伺いを仕立ててもらった。老齢の代筆屋は悠仁の話を黙って聞き、金釘流の悠仁の下書きを一瞥して、それは見なかったことにして、流れるような手つきで清書を仕上げた。ハーダリアの非道を止めたい、という趣旨の部分だけ、老人は二度読み返し、それから一度だけ悠仁の顔を見た。
「……お若いの。この文言は、『大陸の平和に資する協力の御願い』と直します。」
「意味が変わりませんか?」
「変わります。ですが、届きます。」
それがこの国の文章術というものらしかった。届かない正論より、届く婉曲。老人の皺だらけの手は、そういう文章を50年書き続けてきた手なのだろう。
店の中は、墨と蜜蝋と古い紙の匂いがした。壁の一面は書式の見本で埋まり、もう一面には、紐で綴じられた分厚い束がいくつも掛かっている。聞けば、差し戻された伺いの写しだという。どの文言が戻され、どの文言が通ったか。50年分の勝ち負けの記録が、そのまま次の客の武器になる。そして帳場の隅に、小さな祭壇があった。祀られているのは神像ではなく、根元から折れた古い羽根ペンが一本。誰の筆か、なぜ祀るのか。聞くのは野暮だという顔を老人がしていたので、悠仁は聞かなかった。
ステラだけが、帰り際にもう一度、その祭壇へ目をやった。長い一瞥だった。
(王に届く言葉を、検閲局が選ぶ……。)
帰り道、悠仁はずっとそのことを考えていた。
(それって、つまり……検閲局は、王より上流にいるってことじゃないのか。)
川の水は、上流で濁せば下流まで濁る。上流で堰き止めれば、下流には一滴も届かない。この国の言葉の流れの一番上にいるのは、王ではない。
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――カンタヴィア 宿「白鳩亭」
「10日かぁ。……ま、のんびりできると思えばいいんじゃない?」
夕食の席で、ミーナが伸びをした。宿は大通りから一本入った静かな……いや、この都では全てが静かなのだが、ともかく感じのいい宿だった。白鳩の看板。女将は無口だが飯の量は多い。
「そうだな。カインの脚の様子も見たいし、フルールも本調子まではもう少しだ。10日、この街で羽を伸ばそう。」
「羽を伸ばすって言っても、歌も酒場の騒ぎもない街でですけどねぇ。」
「酒はあるんだろ?」
「あるみたいですよ。『静かに飲む酒場』が。」
「……逆に見てみたいな、それは。」
「わ、私は遠慮しておきます……。静かに飲むお酒って、その、絶対悪酔いします……。」
アリスが真顔で言うので、食卓に小さな笑いが起きた。笑い声も、もう全員がこの国の音量で出せる。慣れというのは、本当に恐ろしい。
配膳の時、隣の卓の親子連れが、皿を前にして卓の縁を指で軽く二度、叩いた。父親が二度、子どもが真似て二度。それから食べ始めた。フルールが目ざとく見つけて、自分の卓の縁を、こつ、こつ、と叩いてみせる。給仕に来た女将が初めて、無口の顔をわずかに崩した。
「……あら。お上手。」
声を出さない、いただきます。そういうものが、この国にはあるらしい。次の皿から、六人と一匹の卓にも、小さな二度の音が増えた。フェリスは前脚で一度しか叩けず、女将がもう一度だけ笑った。
その夜、悠仁は寝る前に窓を開けた。
白い都は月光の下で青白く沈んでいた。都市というものは、夜でも音を持っているはずだ。遠くの喧騒。犬の遠吠え。酔漢の千鳥足の歌。ヴァリエスタでもカシュカントでも、夜の窓を開ければ、そういう音の澱みたいなものが必ず流れ込んできた。
ここには、ない。耳の奥が痛くなるような静寂が、都の上にどこまでも広がっているだけだ。
静寂というのは、長く浸かっていると音がし始める。自分の心臓。血の巡り。瞬きの、湿った小さな音。体の内側の物音がこれほどうるさいものだと、悠仁はこの国に来て初めて知った。都の十万人は、毎晩この内側の音と二人きりで眠っているのだろうか。それとも慣れて、聞こえなくなるのだろうか。
(……静かな分、みんな耳がいい、か。)
ポルタセーラの女将の言葉を思い出しながら、悠仁は窓を閉めた。
閉める寸前——風の奥で、何かがほんのかすかに鳴った気がした。
気のせいだと思うことにした。この国に入ってから、そう思うことにしたものが、少しずつ増えている。
謁見伺い(制度)
コレスタニア王宮への謁見を求める際に提出する公式書面。検閲局の審査を経て王宮に回付される。書式・語彙・文言の作法が極めて厳格で、不備があれば理由を付さずに差し戻される。このため王都には謁見伺い専門の代筆屋が多数存在し、腕のいい代筆屋は貴族並みの収入を得るという。「届かない正論より届く婉曲」は代筆屋たちの職業訓とされる。




