影の谷⑤ 名前のない一つ
流行り病の年の名簿を、寄り合いは夜通しめくった。
その年、チェルヴァルテでは二十六人が死に、二十五人が、名を呼べる誰かを残していた。残っていない一人は、峠の冬に行き倒れた旅の子だった。名簿には『童子、名不詳、南より来たる』とだけあった。埋めたのは当時の墓守で、その墓守も、もういない。
「名前が、ない」と組合長が呻いた。「呼んでやりようが、ねえ」
朝まで、誰も解けなかった。解いたのは、フルールだった。彼女は夜明けの草地で、膝を抱えた影の前にしゃがんで、昨日と同じ高さに目線を下げて、言った。
「名前、なかったんですね。……どうしてでしょう。それが、どんなに心細いか、わたし、知ってる気がするんです。理由は、うまく言えないんですけど」
影は、動かなかった。フルールは続けた。
「だから、約束にしませんか。あなたの名前は、これから、わたしが覚えておく係になります。『チェルヴァルテの丘で、いちばん最後まで律儀だった子』。長いですけど、忘れませんよ。わたし、覚えておくのは、得意になったので」
影が、顔を上げた――ように、見えた。
剥がれ方は、他の十一と同じだった。ただ、消える前に、影は一度だけフルールの影の隣に並んで、大きさを比べるみたいにした。それから、朝日の中へ歩いていった。最後の大鹿は、自分の影を確かめるように三歩歩いて、翼を広げ、群れの消えた方角へ飛んだ。
――精算は、その日の昼だった。
「討伐は、していません。護衛も、していません」とステラは二通の依頼書を並べた。「でも、目的の欄は、両方とも果たした。だから、双方から半金。それが、うちの請求です」
牧場組合から金貨九枚。遺族の寄り合いから七枚。寄り合いの代表が「うちは全額でも」と言いかけたのを、ステラは「半分と半分で、一人前の仕事です」と切った。帳面には、こう載った。品目、影返し。数量、十二。収入、金貨十六枚。備考の欄は、珍しく長かった。
『うち一件、報酬の受取人なし。当該報酬は、受取人の名を覚えておく係が、代理で受領した』
出立の朝、ソムニヴェッラの毛布が二枚、荷台に積まれた。銀貨十二枚。ステラは「戦利品じゃなくて、仕入れ」と言い張った。丘を降りる道で、体の軽さに気づいた。35。都を見る前に、もう半段、上がっていた。……殺していないのに、上がった。この世界の神様が何に経験値をくれるのか、少しだけ分かった気がして、それ以上は考えないことにした。
振り返ると、高原の草の上を、雲の影がゆっくり流れていた。どの影も、ちゃんと、雲の形をしていた。




