影の谷② その影は歩き方まで
翌朝、北の谷を見下ろす尾根に登った。
いた。十二頭。鹿の体に、鷲めいた翼と羽毛。大きい。角の先まで入れれば、馬車より高い。群れは谷底の草地に降りて、静かに草を――いや、昨夜の羊の残りを、食っていた。
「……見て。影」
ミーナが言った。言われなくても、もう全員が見ていた。
朝日が斜めに射して、十二頭の影が、草の上に長く伸びている。その影が、一つも、鹿の形をしていなかった。
人の形だった。
杖をついた年寄りの影。籠を抱えた女の影。背の曲がった男の影。子供の影が、二つ。鹿が首を下げて草を食めば、年寄りの影は腰を屈めて、何かを拾う仕草をした。歩けば、影も歩いた。その歩き方が、と後で猟師の一人が言った。膝の悪かったうちの親父の、歩き方まで、そのままなんだ、と。
チェルヴァルテは、二つに割れていた。
討伐派は牧場主たち。実害は明白で、冬前に群れを潰さねば街の羊毛が終わる。保護派は遺族たち。あれは流行り病の年に死んだうちの家族が帰ってきたのだ、影を見れば分かる、矢を向けるなら俺たちに向けろ。集会所は連日その二派で怒鳴り合いになり、静謐法の緩いこの街の自由が、いまは丸ごと裏目に出ていた。
そして依頼は、二通、来た。
牧場組合からは討伐の依頼。金貨十八枚。遺族の寄り合いからは、群れを傷つけずに冬山へ移す護衛の依頼。金貨十四枚。こっちは、家財を売って作った金だと、ひと目で分かる端数の混じり方をしていた。
「両方は受けられない。文言が、真っ向からぶつかってる」と俺は言った。
「……受けられる」とステラが言った。「どっちの依頼書も、目的の欄は同じ。『羊の被害を、終わらせること』。手段の欄が違うだけ。手段は、こっちで選んでいい契約に、書き換えさせる」
その夜、尾根の上で、フルールが群れを見ていた。ずっと、瞬きが少なかった。
「Yujiさん。あの影……借り物、ですよね。あの子たち、自分の影を、持っていない」
そう言ったフルールの足元で、焚き火が揺れた。揺れた明かりの中で、彼女の影が、一瞬――一瞬だけ、知らない女の形に見えた気がした。まばたきの間に、それはフルールの影に戻っていた。
俺は、何も言わなかった。言わないことに、決めた。




